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退職エントリ「Webで急成長したベンチャー企業の成れの果て」++

このエントリを書きはじめた時点の私はまだK社におり、最終出勤日の2日前から筆を執り始めました。

自分を取りまく環境が10年間でどのように変化していったのか、風化しないうちに覚えている限りをありありと綴りたかったのです。

私は10年間、ベンチャー企業であるK社にWEBデザイナーとして在籍していました。まずは私の前職であるK社がどんな企業だったのかをご説明します。


K社の業務内容と、私の立ち位置

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業種はサービス業。
主にライブやコンサート、展示会、お祭りなどをサポートするために、物品の貸し出し、人材手配や会場での設営撤去などを行っているイベント会社で、私はそこでウェブサイトを通じて集客担当をするWEBチームの長を務めており、少数ながらチームマネジメントする立場にいました。

地元就職だったので、勤務にかかる移動のストレスは少なく済んでよかったなと思っております。

K社の待遇面

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K社は薄給で拘束時間が長く、基本給が最低賃金スレスレで、営業職や施行職は危険が伴う仕事も多いです。
日々の業務が忙しく、勉強に充てられる時間はほぼありません。

10万円弱の基本給に固定残業手当が乗る形で、ようやく月額20万円前半のお給料がいただけるという現状です。

固定残業時間は閑散期で40時間前後。繁忙期で120時間に上ります。
これは変形労働時間制を採用しているからで、この業界は繁忙期と閑散期の業務量に圧倒的な差があります。ただ、どちらにしてもタスクが多く、結局みんな休日出勤をしたり残業時間をオーバーする羽目になっていました。

次に賞与ですが、私が勤め始めた2010年は年に2回はあるというお話でした。ところがその年と翌年にボーナス退社が相次いだため、2回だったはずの賞与は年1回になり、そのたった1回だけになったボーナスすら、それ以降はまともに支給された年は中々訪れず、きちんと支給されたのはたった1回だけでした(その1回も、1ヶ月ぶんの給料ほどの額でした)。

営業達成賞も寸志程度のもので、エース級の営業マンは真っ先に辞めていきました。
そして数字を稼げる営業ほど現場に行くことが多かったのですが、それが原因で社内行事に出席できず、その営業さん達が叱責を受けていたことも彼らの退職理由でした。

では、そこまでその会社は儲かっていないのか?というとそういうわけではなく、投資と還元の天秤が明らかに投資に傾いてしまっていたのです。
賞与がない、売り上げも目標達成できていないにもかかわらず、何故か新しく人は採用されるし全国中に拠点も増えていきました。

こんなことばかりをしている訳ですから、営業職も数字を稼げる人間ほど相次いで退職していきました。
残ったのは稼げないイエスマンばっかりです。

ここまで書くと、経営者が足場を固めずに次々と投資をし続けていることや、売上目標を必要以上に高く設定し、社員から時間とお金を一方的に搾取していること、会社を私物化してしまっている現状がなんとなく伝わると思います。
そんな会社に10年もいた訳ですから、私の最終出勤日に皆から送り出されるとき、その空間にスタートアップメンバーは一人もおらず、涙ながらに別れをつげる後輩たちに対して失礼なほどに、特になんの感情も湧き上がらないほど私の心は乾ききっていました。

K社の強み

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K社の主な強みは集客力です。社内ECサイトによるお問い合わせ数は私が入社した時点で1日平均30件近くありましたが、これが10年で120件に増えました。※コロナショックにより、2020年度は半分の60件ほどに収まってしまいました。

繁忙期、多い時は250件を超えるお問い合わせを戴くこともありますが、閑散期は100件を切ることもあります。
これが前述した変形労働時間制を導入した理由で、この業界は売れる時期と売れない時期の落差が大きいのです。

会社が儲かれば投入資源も増えていきます。最初は関西の片田舎(具体的な県名は伏せさせていただきます)にある小さな会社でしたが、東京、大阪、愛知、神奈川・・・と次々に拠点が増えて私の退職時は全国中に18拠点展開する形となりました。
案件精度も高まっていきました。最初は関西から関東まで毎回物品を発送するしかなかったのですが、拠点が増えたり協力業者ネットワークが広がっていくと、より少ない輸送コストでお客様へサービスを提供できるようになっていきました。

従業員数も、20名から200名ほどになり、ここまでの規模になってくると、他の企業からM&Aのお声も頂けるようになってきました。
子会社となった企業と連携することで、提供できるアイテムもサービスもより豊富なものになっていきました。

K社との出会い

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K社と出会うまでの私は職場を転々としており、1つの職場に長く務めるということはありませんでした。
理由はシンプルで、自分が希望する職種で募集している企業が見つからず、仕方なく営業などの仕事をしていた為です。

ハローワークでK社の求人を見たときは3社目を退職した直後であり、K社の求人を見ていると、自分が趣味で進めていた個人ホームページや、画像編集の技術が活用できる企業だなと思って応募しました。
応募したその日の夕方に面接があり、急ごしらえで履歴書を作成してK社まで面接に向かいました。

K社の社屋を初めて見た時は「・・・やっているのかな?」って思うくらいに人気がありませんでしたが、階段を登って2階にあがると、そこでは色んな方がPCと向き合っていたり電話をされていました。
そして、現在の社長と出会います。

これまで面接してきたどの企業の社長ともタイプが違っており、新鮮だなと思ったのと覚えています。


特徴としては・・
- 元気がある
- ウェルカム感全開
- 難しいことはなく、シンプルで分かりやすい
- 揚げ足取りや、重箱の隅をつつく事はしない
- これからこの会社をかっこいい会社にしていきたいと思って仲間を探してる
- でもちょっと胡散臭い

こんな感じです。
「何にしてもそうだが、好きでやってる奴が1番強いと思う」と言っていただき、内定を頂きました。
まずトライアル雇用で入社し、3ヶ月経過してから正社員になるのだそうです。トライアル雇用をすると助成金が入り、そのお金で事務机やPCなど必要な備品を購入しているとの事でした。

初出社~1年目(2010年)

面接から約1週間後に初出社。
床面が張り替えられており、面接でお邪魔した時と比べると見違えるほど綺麗になっています。

本当にリアルタイムでどんどん環境を良くしていってるんだなぁと思って見ていると社長が入ってきて「おお来てくれたか!」と喜んでくれました。
事務所の皆さんも皆温かい雰囲気であり、喧々とした感じの人は1人もいませんでした。

それから同じ部署の先輩社員であるOさんの指導のもと、ECサイトの商品ページを作っていきます。
お問い合わせ件数も、みるみる増えていって、同じオフィスにいた営業さんもいつも忙しそうにしていました。

私は新規開拓営業の経験があり、商談1件をとるだけでも難しい業界にいたので、この事の凄さはよくわかっていました。
「にあ君、自分から営業活動をかけなくてもウェブサイトがあれば1日に30件もお問い合わせを受注出来るんだよ!」

当時の人員では30件のお問い合わせに対応するだけでも、営業さんは必死でした。
だからこそ人員増強のためにもっと人が必要になり、私のあとに営業のUさんと初の女性社員Gさんが入社しました。
そんな状態で3ヶ月ほど勤務して、私は晴れて正社員になりました。

その矢先に、初の退職者が出ます。Gさんを指導していたベテラン社員のSさんでした。
退職理由は「賞与額が気に入らない」との事でした。

これまで散々ハードな状況で血を吐くような思いで頑張ってきたのに、この待遇はありえないと言ってSさんは退職。
Sさんの力は相当なものだったようで、朝礼で全員で今後どうするのかについて話し合う事になりました。

社長は
「今後は、こんな事になる前に退職者が出るのを未然に防ぎたい。
だから今事務所にいるメンバー達に、なにか不満に思っていることがあるなら言ってほしい。」

と皆へ投げかけます。
誰かが意見を出す事はあまりなく、気まずい沈黙が続きました。

この話し合いで、メインとなったのはSさんが欠員してしまったことによるダメージの修復でした。
特に電話対応や見積もり作成、業者への物品手配、商品の配達などはSさんの対応力によって成り立っていた部分も多く、このままではせっかくお問い合わせを受注しても対応が遅れて案件を落としてしまう。

そこで、今だけ特別に営業職は「見積もり作成、業者への物品手配」に集中し、私とOさんが真っ先に電話に出て、営業さんの時間を作る事となりました。

WEBの仕事を進める優先順位はその後になり、1日のうち8割9割は電話対応にあてる時間となってしまいました。

この状況が、なし崩し的にずっと続くようであれば今後の身の振り方を考えないといけないなと思いつつ、もともと営業職だった自分は次々に電話対応を続けることが出来、それで決定した案件も増えていきました。
話を聞いてみると良いお客様も多く、この時はけっこう楽しく仕事出来ていたと思います。

この時代は、受注方法は電話、FAX、メールしかなく、受け取った案件の情報が自動的に1箇所に格納されるようなシステムはありません。
すべてが手入力です。
だから、少しでも集中を欠くと記入漏れが発生してしまい、お客様にご迷惑をかけてしまいます。

そんな中でも新人営業マンのUさんは、こんな時こそ踏ん張るべきだといって夜中遅くまで残ってずっと見積書を作成していました。
Uさんは営業力が高く、事務所で座って電話対応や商品の発送をしているだけで、ほぼ現場に出なくとも事務所で1番の売上をあげていました。

しかし午前を回ってもまだ仕事をずっと続けており、日が昇るころに帰宅して、再び朝に出社
こんな生活を一人暮らしをしながら続けていたものですから、ずっと続く訳もなく、体調を崩してしまいました。

私の先輩だったWEBチームのOさんは電話対応の声がなぜか暗く、Uさんによく指摘をされていました。
もともと職人気質だったところもあり、それであまり声にハリがなかったのかな?と思っていたらそういう訳ではなかったようです。

元々Oさんは、私が入る前から確執があったようで、それが今回の騒動によってぶり返していたようです。
程なくしてOさんは退職。WEBの仕事ができるのは、しばらく私だけになりました。

N社との出会い

N社は、主に展示会で使用するアイテムを取り扱っている会社です。ある日、N社から事務所に電話が掛かってきて「うちで取り扱ってるアイテムの代理店になってくれませんか」というお話を頂きました。
N社は取扱商品数が豊富であり、ECサイトに掲載するアイテムもそろそろ底をつき始めていた私にとって、嬉しいお話でした。
価格表を頂いたところ、信じられないくらいの好条件で取引をして下さることがわかり、以後N社とは長くお付き合いする事になりました。

そんな感じで初年は過ぎ、短期間でいろんなトラブルもありましたが希望どおりの仕事ができるようになった事や、念願の地元就職ができたことにより私はそれなりに満足していました。

2年目(2011年)

2年目が始まってしばらく経ったタイミングで、東日本大震災がありました。電話はつながらず、関西にあったK社も少し電線が揺れていました。

その揺れから程なくして、未曾有の大震災が起きたことが緊急ニュースとして流れます。
営業のUさんは東京から単身で関西の片田舎にあるK社に勤務していたので、実家と電話がつながらなくなってしまいパニックになりました。
その彼を安心させるための発言だったのか、社長は「大丈夫だ、正月に電話とかメールが繋がらなくなるのと同じだろ」と言い、その軽い言葉にUさんは激高してしまいました。

それからしばらくして、Uさんは体調を前よりもよく崩すようになりました。

4月からは新たな取り組みとしてアルバイト・パートに主婦層をがっつりと取り込むことになりました。

私の地元には
「子供が帰ってくるでの時間帯は働きたい」
「でも、その条件で雇ってくれるアルバイト・パート先がない」
という悩みを抱えたままずっと働けなかった方が多かったので、募集をかけてみたところ多数の応募がありました。
元々、事務所では商品のメンテナンスや梱包・発送も正社員が夜な夜な行っていましたので、その部分を受け持ってもらえるのは非常にありがたかったです。
WEBの仕事もやりたいという方が何名か現れて、ある程度の補助的なことはお任せ出来るようになりました。

2年目が始まってすぐのタイミングで、デザイナー経験のあるJさんが営業職として入社。これにより、ECサイトで既製品ばかりを売るのではなく制作物の依頼も受注出来るようになりました。
そして、英語が話せるLさんも入社。

これで、昨年に人材が流出していった事によるダメージは塞がりかけたかのように思えました。

ところが、程なくして営業のUさんが退職する事になってしまいました。
原因は元々患っていた精神疾患の再発によるものでした。

ある日を境に、社長や営業部長からのUさんに対する扱いが、どんどん乱暴で理不尽なものに変わっていったのを覚えています。
このような事になってしまって非常に悲しかったのを覚えています。

この頃から年に二回あった賞与は年に一回になりました。
社長は「賞与をもらったタイミングで退職者が相次いだため」だと説明していましたが、それ以降まともにボーナスが支給されたことは私が覚えている限りでは1回しかありませんでした。

入社1年目から一緒に働いていたGさんはリーダーに昇格し、段々と力をつけていきました。Gさんは、パートさんへのサポートに力を入れてくれたりと幅広く会社を助けてくれていました。

私は、WEBのサポートをしてくれていたパートさんと指導しつつ以前のようにまたECサイトのブラッシュアップに力を注ぐようになっていきました。

3年目(2012年)

3年目に入ってすぐのタイミングで、WEBのTさんが入社しました。
女性社員でしたが私と同い年だった事もあり、話がかなり通じる方でした。

2ヶ月ほど経って、Tさんはあるプロジェクトを任されます。
そのプロジェクトは提携業者の方と連携して特設サイトを1つ作れというもので、普段のルーティンを欠かさずにそのプロジェクトをやれと言われました。
風邪など体調不良も続いたためプロジェクトは思うように進まず、何度か私は助け舟を出そうとしました。
ところが、甘やかすなと社長に止められてしまい、Tさんが目の前にいるのにも関わらず、助けられませんでした。

病み上がりの体を引きずって出社してきたところに、プロジェクトが全然進んでいないことを社長に詰められ、Tさんは泣いていました。
翌日から、Tさんは全く出社しなくなってしまいました。

潰されたといっても過言ではないでしょう。

結局、WEB業務もパートさんへの指導もまた私一人だけが切り盛りする形となります。

なおこの年の末頃に、東京に支店ができました。
これまで関西にしか拠点がなかったので、以前は「あ・・・関西の会社なんですね、失礼しました・・・」と電話をを切られることも多かったのですが、お店があるというだけで関東のお客様にも安心してサービスをご利用いただけるようになりました。
元々東京からのお問い合わせ受注が圧倒的に多かったので、大切な第一歩を踏み出した瞬間だったと思います。

4年目(2013年)

この年、私は運命の出会いをすることになります。
営業のAさんと、元々システムを開発していたMさんが入社しました。

Aさんは後にK社を退職し、転職先であるB社から私に引き抜きの声をかけてくれた人です。
Mさんは社内システムを次々に独自で生み出してはK社の皆や、長年私の至らない部分をサポートしてくれた頼もしい方です。

そして2013年は関東方面で大量に人が入ってきた年でもありました。

5年目(2014年)

組織が大きくなってくるにつれ、会議の頻度もだんだんと上がっていきました。WEBはまだ3名しか正社員がいなかったのですが、ここで私はリーダーになると立候補し、1つの部署を任される事となりました。

6年目(2015年)

この年から、会社はこれまで以上に急成長することになります。
組織づくりと人材育成に力を注ぐことになり、各リーダーにはプロのメンターが指導をするようになりました。
また、これまではECサイトがサービスの中心だったのですが、Mさんの力によってイベント情報の投稿ができるサービスもリリース。
Mさんは元々のバックボーンが強力だった事もあり、システム運用や動画制作など様々なことが出来るようになり、めきめきと力をつけていきました。

7年目(2016年)

Aさんが頭角を現し、この年にリーダーに昇格。
彼は元々営業職だったこともあり、他の追随を許さないほど売上も上げていました。

K社はECサイトで反響営業をしていました。そのため、新規開拓のためにメルマガや飛び込み営業、ポスティングなどをすることがほぼ無く、営業職の「営業力」が弱体化しきっていたのです。
これは冒頭で述べたK社の強みの裏返しであり、簡単に案件を取れすぎてしまうが故に営業職が育たないのです。案件受注できる事が当たり前になってしまい、その有難みに誰も気付けなくなっていたのです。

Aさんが結果を出せたのは案件の大事さを肌で知っていたからです。お問い合わせの1件1件がどれだけ大事なのかを誰よりも理解していたからこそ、お客様1人ひとりと蜜に連絡をとりあって大切にし、結果、数字となってそれが現れていました。

このあたりから、会社は企業理念やコアバリューを軸にした経営をするようになっていきました。

理念といえば、社長室の額縁とかに飾ってあるイメージが強いと思います。ですが本来、理念とは社員たちとベクトルを合わせて一致団結する上で欠かせないものであり、組織が大きくなればなるほど、その団結力の必要性も増していきます。
2013年頃から拠点展開を広げ始めたK社は、この理念を大々的に押し出して組織作りにも採用活動にも取り入れて行きました。これが功を奏したのか、採用人数も爆発的に増え、社員数もとうとう100名を超えるようになりました。

東京での採用も活発化し、そしてとうとう関東で2つ目の拠点である神奈川支店がオープンしました。

8年目(2017年)

この年は、新卒採用も爆発的に増えてWebスタッフも2名+中途採用1名を迎え入れる事になりました。
Webは私とMさんだけで回していたのですが、ここで一気に5人体制となりました。ここで私は部長クラスに昇格し、Mさんにはリーダーを任せる事になりました。この年あたりから、環境が整ってきたのか良い企業文化づくりが出来てきたのか、離職率もだんだんと減りはじめていきました。

9年目(2018年)

Webチームに新たにH君が入社。さらにMさんはその実力や会社貢献度が認められ、私よりも高い役職につく事になりました。

この年はWebのルーキーだったD君が犠牲にあいます。社長が持ち出した、あるプロジェクトのメンバーにならないかと言う話を断ってしまったせいで会社から干される事になりました。

D君は誰よりも努力家で、仕事が終わってからも1人黙々と勉強を続けていて、ほかの新人達よりも早く仕事を覚えていってくれました。
しかし周囲は彼が類稀な才能の持ち主で、それを鼻にかけているのだと勘違いしていました。
見えないところで努力していて結果も出せる子が、こんなにも報われないまま爪弾きにされるようであれば、私自身もこの会社にいる意味が無いなと思うようになっていきました。

さらに社長からの度を越したモラハラに耐えかねて初期メンバーの一人だったGさんも退職しました。彼女だけは何があっても最後まで残ると、誰もが思っていたのに、その最後はあまりにも呆気ないものでした。

ちなみに、私がTwitterで様々な方々と繋がり始めたのはこの年からになります。勉強会に参加したり、友達を増やしたりして少しずつ外部からの刺激を受ける習慣をつけるようになりました。
これまでやっていなかった資格所得もぽつぽつやり始めるようになり、この年に3級ウェブデザイン技能士の資格を所得しました。

10年目(2019年)

ある日、Webの部署を支えてくれていたMさんが、限界を迎えて自ら降格の道を選択しました。
自分が作ってきたシステムに対して、遠回しに文句を言われたり、責任ばかりを追求されて、その対価は得られなかったりで、精神的に苦痛で堪らなかったとの事でした。Mさんがせっかく登ってきた役職を降りて平社員になってしまい、チームの士気もガタ落ちしてしまいました。

WEBで受注できるお問い合わせの数も段々と横ばいになっていって、結果を出すために躍起になる者は私を覗いては誰ひとり居ませんでした。

Mさんに続いて私も2019年の秋に1度降格となったのですが、ここで引き下がる訳には行かなかったので何とかEC事業を持ち直すべく掲載物品をリストアップし直し、お問い合わせ目標の数値もラスト3ヶ月で連続達成。
4月に再び部長としての地位を取り戻しました。

資格所得にも益々躍起になっており、ウェブデザイン技能士は2級を獲得、あとはサーティファイのWebクリエイター認定試験HTML5をエキスパート級まで獲得しました。

そんなある日、久々にN社の社長さんと呑みにいく機会があり、大阪で待ち合わせをしてお話をすることになりました。

「K社さん、ほんとに大きくなったね!いつもありがとうね!」

そんな会話からスタートした飲み会で、途中までは楽しかったのですが、N社長は段々と日頃のK社の対応について改善して欲しいことがあります、と話をしてくれました。

「実は深夜に積み込みをして、朝イチで現場到着したのに、実際にお客様がやってきたのは昼過ぎからでした。時間間違えたのかなと思ってK社の営業さんに電話かけてみたら『あっ伝え忘れてました』って言われました」
「他にも、撤去が終わったあとの機材をK社のひとは誰も取りに来ないからウチの人間が代わりに持って帰った事もありました。これウチがトラック持ってたからいいんですけど、そうじゃなかったら会場に大迷惑かけてたところですよ?」
「こういった事例がいっぱいあるんです。K社とは長いお付き合いだし実際に仕事も沢山くれるからあんまりこう言う事言いたくなかったんですけど…」

こんな感じでした。
営業マンがいい加減な対応をしているという話は前々から聞いていたのですが、ここまで酷いとは思いもしておらず、落胆してしまいました。

N社長は「忙しいのはもちろん分かってるんだけどね!」と言ってくれましたが、自分たちが命をかけて集客して、N社に支えて下さっているような案件をぞんざいに扱われている事は、私も聞いていて不快で腹立たしい思いになりました。

ちなみに営業部署では、最後まで残ってくれていたエース級社員が、この年に3名退職して全滅してしまいました。以後、営業目標は長いこと達成出来なくなってしまう羽目になります。

11年目(2020年)

そしてとうとうコロナウイルスがやって来ます。あらゆるイベントが自粛となり、案件受注数も4分の1ほどに減ってしまいました。
はっきり言って壊滅的なダメージです。コロナの被害をモロに直撃で受けてしまっていました。

感染者数は拡大していき、政府からは緊急事態宣言が出て外出自粛を余儀なくされて、文字通りの暗黒時代に突入していきました。

バックアップは取れていた方だと思います。
持続化給付金や休業補償が出るのと、金融機関からの借入金があったことはまだ救いでした。

しかし段々と緩やかになっていた退職者の数が、ここに来てまた一気に増えて行きます。

そしてとうとう、営業の要だったAさんが退職する事になりました。

それから半年して、Aさんから「ウチの会社に来てくれないか」とお声をいただきます。11月の末頃の出来事でした。
B社にて、面接内容やAさんからのお話を聞いていて、条件的にはいっさい不満はありません。寧ろ喉から手が出るほど欲しかった環境です。

新しい環境でのチャレンジとなりますので、今は期待と不安が常に入り交じった状態です。

先日内定通知書が届き、退職の意志をK社の社長へと伝えました。
電話口では明るかったのですが、私の見ていないところで泣いてしまったようです。

12年目(2021年)

新天地でひとり暮らしをはじめて、全く新しい環境でゼロを1に変える仕事が始まりました。
雇用をする側の立場からすれば、人を雇用することは、最初は出費がかさむのでマイナスのはずです。だから損益分岐点を見極めなければならないのですが、元々ある座組みの上で活躍してもらうというよりは、その座組みを作るために雇ったという感じです。

私自身もB社というブランドは未知数であったため、これをどう情報発信していくのかが当面の課題でした。

この業界はレッドオーシャン化が進んでいる上、コロナ禍が長期化していることもあって状態としては、どの会社もサービスの陳腐化が激しいです。優秀な人が辞める、商品の回転率が下がり、メンテナンスがおろそかになる、電話窓口の人数が減るなどの要因が重なり、需要に対して対応できる供給能力が弱体化しているのです。

そんな場所に、手垢がついたような商品やサービスをもって入り込むことは至難の業です。なんらかの形で自社の価値を見出し、それを世に放たなければいけません。

ぶっちゃけてしまうと、だからこそ活躍の場がありました。

どういうことかというと、既存顧客だけでは食べていくためには足りない状況だったのです。B社もそれは例外ではなく、人が辞めて残った人たちは値引き交渉をされきった、食った後の魚の骨をしゃぶるような旨味のない案件に振り回されていたのです。
物流拠点も、ほぼ機能しておらずメンテナンスもされておらずホコリやカビ、錆びなどがあって捨てるしか無い物も沢山ありました。配送センターというよりは物置きといった具合です。

この現状を見て、真っ先に必要だったのは新規顧客だとすぐに思いました。集客をし初めて、最初の1ヶ月はほぼお問い合わせがありませんでした。毎日当たり前のようにお問い合わせを貰えるようになったのは、4~5ヶ月が過ぎてからです。

1発めのお問い合わせを頂けた時は手や声が震えました。
この感覚、本当に久々です!初心忘れるべからずといいますが、本当にずっと忘れないでいようと思いました。

さて、そんな悲惨な状況下において私の扱いはどうだったかというと・・・。

はっきり言ってK社とくらべたら天国です。

まず人格否定をされたり詰問されたり、社内チャットツールで吊し上げにあうようなことがありません。
向上心のない人にずるずる足を引っ張られるようなこともありません。
生産性のかけらもない社内会議や、しょうもない行事や茶番劇に夜中まで付き合わされたりすることもありません。

何より、狭い囲いの中でしか生きられないように会社独自の思想に洗脳するようなことをしません。

残業もだいたい1時間以内で、休みはきっちり取れているし、頂けるお賃金は前よりも上。転職して正解でした。

さて、ではK社はどうしているかというと・・・。

元同僚曰く経営者の振る舞いは、これまでよりも排他的で傍若無人な側面がむき出しになったようです。そして人の流出が、決壊したダムのように止まらず、蛻の殻というか、残ったのは建物だけか・・・?って元同僚の話を聞いていて思いました。

どれだけ綺麗事を並べていても会社というところは景気の波が引くとすることをする場所です。

とはいえ、K社よりも現時点では規模の小さなB社は、そんな扱いを一切しません。やはり会社を選ぶなら人を人として扱う所を選ぶべきでしょう。

これ当然といえば当然なのですが、口先ばかり人財だなんだと御託を並べておいて実情と著しく乖離のある企業、あまりにも多すぎます。

それと、真に志高く優れた組織なのであればみだりに人の考えを染めたりせずとも人は主体性を発揮してより良い環境づくりをするはずなのですが、現状にあぐらをかいたらそんな人ほど去っていきます。

なぜなら、お賃金はある程度もらえはするものの、嫌な目に合う人がより増えるような事業に対して、自分の限界以上に加担する理由がないからです。

まとめ+読んでくださった方に伝えたいこと

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以上が、私が見てきたベンチャー企業、K社の成れの果てです。
エース級社員が次々と見限りをつけて退職していき、成長というよりは膨張するだけしてしまったK社がどうなるのかは、今後誰にもわかりません。

ホワイトかブラックかといわれると、間違いなくブラック企業でしょう。
ですが10年間お世話になった訳ですし、職種としてはデザイナー職なので、そこまでハード過ぎるいわゆる3kな職場では無かったので私としてはK社には感謝しています。

一方で劣悪な状況のまま社員たちを苦しめたり、彼らの時間を粗末に扱い、一生懸命に頑張っていた仲間たちを踏みにじったという事実もあります。

そこで今回、フェアな視点から退職エントリを書かせていただく事にしました。

自分の価値は自分で高めなければならない

最後になりますが、どんなに劣悪な環境であったとしても、仲間のために主体的に物事を改善しようと頑張っていたり自分を高めようと努力をしていると不思議と物事が好転していく事にラスト2年で気付かされました。
Aさんからお声を頂けたこともまた、これまで培ってきた信用貯金のようなものが生きた形となって現れたからだと思います。

この記事が、これから就活される方や今いる環境に満足出来ない方、退職を検討している方に届いて何かの参考になればいいなと願いながら、筆を置かせていただきます。

それでは、長い記事となりましたがご精読ありがとうございました。

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