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聞言師の出立 第26話(第5章 4)

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「手遅れになります、早く!」
 叫んだアクオは〈山〉を駆けのぼっていったが、残された者たちは逡巡した。
 だが、筆の中の漂陰が教えてきたということは、〈山〉で起ころうとしているのはおそらく漂陰絡みの凶事。それならば、聞言師ならぬ身でできることは多分ない。しかも、何かが起ころうとしているのなら村に知らせねばならない。
 世話役たちは、アクオに言われた通り〈山〉を下りはじめた。
 登れば登るほど重くなっていく〈山〉の空気に、思考も鈍らされていた。
 山道の鋭い角を一つ曲がったとき、ルクトが待てよと言いだす。
「なあ、アクオを独りにしていいのか」
「私たちに漂陰をどうにかすることはできないぞ」
「いや、だって巫もいるだろ。巫がなんか企んでたら、アクオは……」
 フロニシがびくりと立ち止まった。ルクトを振り返った顔は強張っている。
「そうだ……その通りだ。アクオが危ないかもしれない」
 サレオとレイアデスの淀んだようだった目にも光が戻る。
「くそっ! 何を考えていたんだ俺は!」
 聞き慣れないフロニシの悪態に、エクテが目を瞬いた。
「村まで一番早く帰れるのは誰だ!」
「レイだ!」
「よし、レイアデスは〈山〉に変事が起こるかもしれないと伝えに行け。念のため、町の聞言師にも使いを出させろ」
「あたしが伝言を書くから、あんたたちはアクオを追いな! 書いたら——」
 サレオはエクテを見やる。縋りつくような、だが強い光を湛えたその目に、サレオは短い黒髪を掻きむしった。
「ああ、もう! 書いたらあたしもエクテを連れて、あんたらを追っかけるから!」
 フロニシとルクトは、気をつけろよと声をかけて少年の頭に荒々しく手を乗せると、下りてきた坂を再び駆けのぼりだした。

 〈山〉の空気の重さは、身体に及ぶものではない。
 心の隙間に入りこみ、気力を失わせ、希望を損なう質のものだった。困難や理不尽に抗う意志が挫かれれば、前進の足は自然と遅くなる。それが一行の身体の重みとなって現れていた。
 しかしつよい意志があれば、跳ね返すことはできる。アクオの後を追う者たちは、先刻まで青息吐息だったとは思えない速さで同じ道を上っていった。
 先に森を抜けたルクトは、戸が開け放たれたままの巫の小屋をすばやく覗きこみ、誰もいないことを確かめると手掛かりを求めて辺りを見回した。
 と、薄暗い光の中で白い物が目に入る。駆け寄ったちょうどそのとき、フロニシがようやく森から姿を現した。
「親父、アクオの荷があった!」
「先に行け!」
 迷わずルクトが向かった先は〈山〉の口。崩れるから近寄るなと言われた砂地と岩場の際を、松明も荷もかなぐり捨てて駆けだした。
 左の岩場に目を向けながらアクオの名を叫ぶ。
 アクオが大きな岩の裏にいれば見逃してしまう。もしも声すら出せないことになっていたなら、通り過ぎてしまうかもしれない。それでも、巧遅は後ろから来るフロニシに任せ、ルクトは拙速を選んだ。
 見つけられずに〈山〉の口を一周することになってもかまわなかった。後で笑い話にすればいい、アクオさえ無事であれば。
 聞こえるのは、アクオの名を呼ばわる己の声と、砂になりかけた地面を蹴る音のみ。その耳が、ふと何かを捉えた。
 口を閉じると、風に乗って男の怒鳴り声が聞こえる。ひときわ巨大な岩の方からだった。
 ルクトは顎を引き、薄闇の向こうを睨みつけながら無言で突き進む。
 砂地まで続く大岩の根元を飛び越えた、その瞬間——聞きたくなかったものがルクトの耳をつんざいた。
 アクオの絶叫であった。

 振り返ったルクトが目にしたのは、脇腹を押さえて叫び続けるアクオ。
 膝を突いてアクオを見下ろす巫。
 その手が高々と上がる。
 ルクトは唸り声を上げながら突進した。
 はっと振り向いた巫の手が止まる。
「おおおっ!」
 雄叫びを上げるルクトの身体が巫を弾き飛ばした。
 巫は巨岩に背を打ちつけ、手から短刀を取り落とす。
「てめえっ!」
 ルクトが巫の胸倉を掴んで己に引き寄せ、もう一度岩に叩きつけようとした。
 その顔に、巫の頭が打ちつけられる。
 長衣を掴んだ手が緩み、のけぞったルクトから巫は逃れでるが、すぐ後ろの大岩に逃げ場を失った。
 首を起こして咆哮を上げるルクト。
 左足を踏みこみ、強く握り締めた右の拳を巫の鳩尾みぞおちに叩きこむ。
 巫は声も上げずに崩折れた。

 肩で息をするルクトは流れる鼻血にも気づかず、アクオを振り向いた。
「アクオ!」
 聞こえていたはずの叫びは今やなく、左の脇を押さえている手の縁から指の間から、色も分かぬ血が溢れでていた。
 ルクトは駆け寄り、手に手を重ねて強く押しつけ、聞言筆を握り締めたまま虚ろな目をしているアクオの肩から背に腕を差しこむ。
「アクオ!」
 降りはじめていた冷たい雨からアクオを守るように覆い被さり、涙でその顔を濡らす。
「アクオっ!」
 返事はなかった。

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 ——あれ?
 深い霧が立ちこめる、見慣れた景色。
 ——なんでここに?
 はっとアクオは脇腹に手を当てる。
 ——刺されて……ない?
 霧の中から、すうっと少女が現れた。
 物も言わず、何の表情も浮かべずにアクオを見つめる。
 ——よう。
 思わず気安い挨拶が零れでたが、少女は口を閉じたままだった。
 ——おれ、〝篩〟を作ったのか?
 少女は頭を振った。
 ——そうか、それでも来られるんだな。まあいいや。
 アクオは気の抜けたような笑みを作る。
 ——おれさ、死んじゃうみたいだ。ああそうか、それを言いに来たのかもな。
 何も返事はない。
 ——あーあ、なんか残念だなあ。お前とも、うまくやれそうな気がしてたんだけどなあ。
 口を閉じたままの少女。
 アクオの心には疑いが芽生えた。これはただの夢ではないだろうか。死ぬ間際に見るという、最期の幻なのかもしれない。
 ——お前、ほんとにそこにいるのか? いや、いい。どうせだから言っとくよ。ごめん。
 少女の頬がひくりと動く。
 ——もう漂陰を連れてくることはできないんだ。ごめんな。
 少女の目に焔が宿る。
 ——怒んないでくれよ。悪いと思ってる。でも死ぬんだ、おれ。
 がくり、とアクオの脚から力が抜ける。
 ——ああ、もう時間かな。じゃあな、元気でな。
 立っていられず、霧の底に膝を突く。
 ——は、漂陰に元気でなって変か。
 急な眠気に襲われる。
 ——じゃあな。よかったらおれの、贈り物、大切にし……てくれよ。
 両手を突いて重い身体を支える。
 霞のかかった目をかろうじて開きながら、最期に見る者であろう少女を仰向いた。
 ——じゃあな……ペティア、、、、
「許さん」
 少女は笑んだ、、、

 そして、眩い光を放つ。


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