聞言師の出立 第25話(第5章 3)
目の前に広がった、荒涼たる白茶けた岩と砂の景色。曇り空はもう赤みがかっている。
アクオは汗も拭わず、荒い息遣いで辺りを見回す。
巫の姿はない。
右手の小屋の戸を力任せに開けるも、雑然とした家の中に人影はなかった。
「くそっ!」
生きるもののない荒れ果てた地に、アクオは視線を走らせた。
ところどころに顔を出す深黒の尖った石の中には、うっすらと漂陰の気配がするものもある。だがアクオの目がその上に留まることはなく、しきりに別のものを探し求めた。
今見つけなければならないのは、巫ではない。
大きな漂陰が棲んでいるはずの石。
見逃すはずのない大きさになった、深黒の生きた石だ。
であれば、村の者に見つからないところにある。人目につかない場所——〈山〉の口の反対側か?
アクオはためらわずに左を選び、ずっしりと重い空気を物ともせず、四方八方に目を配りながら岩を避けて早足で進んでいく。
邪魔になった荷はすぐに捨てた。
大岩があればその裏も見る。時間はかかるが、見落とすわけにはいかない。
じんじんと熱を発していた脚は強ばり、歩きづらい。
心が焦り、脂汗も滲む。
雲間からわずかに見える空はすでに赤みを失いかけ、岩陰の闇がますます濃くなっていく。
叫びだしそうになるのを必死に堪えて探しまわり、視界を遮る岩の裏に回ったそのとき、見上げるほどの巨岩が現れた。アクオの勘が叫ぶ——これだ!
走って裏側に回ったアクオは己が目を疑った。
剣の切っ先のように鋭い下膊ほどの大きさの、深黒の石。
その根元に膝を突き恍惚として見入っている、白服の男。
うっとりと目を細めたまま、柔和な顔の巫がアクオを見上げた。
「あれ? なんで?」
「お前……」
「おかしいな、こんなとこにいるはずないのに。捕まったんじゃなかったの? 石は間違いなく盗まれたって世話役には言ったのにな」
アクオの頭がかっと熱くなる。
「何してるんだ!」
「何って……待ってるんだよ。ほら、漂陰の石ってこんなに大きくなるんだね。知ってたかい」
その巫を横に突き飛ばすが早いか、アクオは屈みこんで腰の革箱の蓋を開けた。
巨大な深黒の石を眼前にすると、周囲の空気がまるで凝ったかのように重い。山に入ったときから感じていた重さの比ではなかった。
そのとき、ぴしりと鋭い音がして縦に亀裂が入る。
忌まわしいことが起ころうとしている——アクオの直感が金切り声を上げた。
——まずいまずいまずい! 早く漂陰を筆で……
右手に聞言筆を掴んで取りだし——その途端アクオは蹴り飛ばされ、地面の岩に頭を打ちつけた。
ぐうっと声にならない声が洩れ、目の前に火花が散る。手からは筆がぽろりと落ちた。
すかさず腹に跨がった巫に、膝で両腕を押さえつけられる。
「ひどいなあ、痛いじゃないか。もう少しだと思うからちょっと待ってよ」
頭の後ろがずくりずくりと鈍く脈動しはじめ、背中と腕に鋭い小石が突き刺さる。身体には力が入らず、もがいても巫を押しのけられない。
「ここまでずいぶんかかったんだよ? 邪魔しないでほしいなあ。こんなことにならないように、君が石を盗んだってせっかく言ったのにさ」
「……お前」
アクオはようやく声を絞りだした。
「ん?」
「お前、何がしたいんだよ」
「何って。見れば分かるでしょ、漂陰を育ててるんだよ。さっきから割れはじめたからね、もう少しで中から出てくるよ、きっと」
頭、背中、腕——ありとあらゆる痛みが消え失せ、アクオは吠えた。
「馬鹿野郎! 何してるのか分かってんのか!」
その顔に、巫の平手が叩きつけられた。鼻から生温かいものが流れだす。
「うるさいなあ。分かってるよ、もちろん」
「なんでこんなことしてんだよ!」
巫の大きな溜め息がアクオの顔にかかる。
「だってさあ、もう嫌なんだよ。どうしてぼくは、ここにいなくちゃならないの。ねえ教えてよ。見たこともない人のために、どうしてぼくは、こんなことしなくちゃならないのさ」
それが巫の務めだからだ。その道理を、だがアクオは口に出さなかった。
「そもそもぼくは巫なんか、したくなかったんだよ。君はいいよね、おんなじようなことをするんでも都にいられるんだから。都は娯しいでしょ。
巫をいつ辞めさせてくれるのか、分からないからさ。ぼくにもせめて、こういう娯しみがあってもいいと思わない?」
にこやかな笑みを浮かべた巫に、アクオの背筋が凍りつく。何を言っても、己の言葉はきっと届かない。
「そもそもぼくはねえ、双子だったんだ。子供のときに試しをしたらさ、二人とも巫になれるって分かったんだよ。そしたらさ、どうなったと思う」
口の両端が広がって笑みを深めるが、その大きな丸い目はアクオを射貫くかのようにぎらついた。
「あいつは都へ行っちゃったんだ! 聞言師に連れてかれて! 聞言師にしてやりたいとかって言われてさ! そしたらぼくが巫になるしかないじゃないか!」
すうっと大きく息を吸った巫が、アクオの耳元に顔を寄せて小声で囁く。
「だから嫌いなんだ。君も、聞言師はみんな」
アクオの前髪を掴んで、頭をぐっと岩に押しつける。
「死ねよ」
顔に唾を吐きかけられても、巫は拭いもせず低められた声で囁き続ける。
「死ねよ、お前ら。リオスもみんな死ね」
アクオの身体がびくりと動き、その目は大きく見開かれた。
ふっと小首を傾げた巫の手が前髪から離れ、身体の重みがアクオの腹に再びかかる。
「あれ? まさかリオスを知ってるの?」
アクオの右手が地面を探るが、掴める石はない。
「ええ、そうなの? そしたらあいつの弟子とか」
無言で睨みつけられ、巫が大声で笑いだす。
アクオの指先が、取り落とした筆に触れた。
「うっわ、すごい偶然! そうか、あいつの弟子なんだ、君!」
巫の哄笑が、厚い雲に隠されてしまった薄暗い空に響き渡る。
「そっかあ、ぼくたち顔は似てないから分からなかったんだねえ。そうだよ、君の師匠のリオスとぼくは双子なんだよ」
アクオの指が筆を手繰り寄せる。
巫は腰に差した漂陰鎮めの短刀に手をかけた。涙を拭いながら、アクオににんまりと笑いかける。
「そしたらさあ」
しゅっ、とかすかな音を立てて革の鞘から短刀が抜かれた。
「代わりに死んでよ」
両手で振りあげられる短刀。
その刹那、アクオの腕を押さえつけている膝からわずかに力が抜けた。
間髪を容れずにアクオは聞言筆を掴みとり、腕を引き抜くや巫に突き刺す。
「があっ!」
巫が腕を伸ばしたまま横様に倒れこみ、アクオは固い岩の上を転がってその下から抜けだした。
だが、そこまでだった。
頭の激痛と目眩に襲われ、立ちあがることはおろか、片腹を上に向けたまま動くことすら敵わない。
聞言筆を握り締めたまま呻き声を上げるアクオに、血の滲む脇腹を押さえながら巫がゆらりと近づく。
「お前さあ、痛いんだよ」
巫はアクオの横に跪くと、その腹にゆっくりと黒刃を沈める。
光を失いかけた曇天に、凄まじい絶叫が迸った。
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