聞言師の出立 第27話(第5章 5)
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「アクオっ!」
返事はない。
光を失った目がゆっくり閉じられていく。
「だめだ、いくな!」
ルクトは首を振りながら、熱い涙をアクオの顔に零し続けた。
「アクオいかないでくれえっ!」
力ない身体にしがみつき、耳元で名を叫ぶルクトの強く閉じた瞼に、白い光が差しこんだ。
誰か来てくれたのかと上げた顔が、明るく照らされる。
「え?」
松明の赤い灯火ではない。
光っているのはアクオの右手。
握り締められた聞言筆。
「なん——」
一閃。
「うわっ!」
眩んだ目を再び開けたルクトの前には、光り輝く真白な少女。
すうっと上がったその腕に、ルクトは思わずアクオの身体から手を離して後ずさった。
傷を押さえていたアクオの手がだらりと落ち、白い光の中で赤黒い血が溢れだす。
後ろに手を突いて凝視するルクトを無表情な顔で見やると、少女はアクオの身体を踏み抜きながら数歩進み、傷の前で背を向けた。
「な、なんだよお前っ!」
飛びかかったルクトの手は空を切り、勢い余ってアクオの脚の上に倒れこむ。
見上げたルクトの眼前で、少女は手を上げて宙に指先を舞わせた。
目に見えぬ速さで動く指が、赤みがかった黄色の痕跡を空中に生みだしていく。
「これ……」
眼前に浮かぶ線と点。
右から左、左から右。
上から下、下から上。
隙間をまるで無秩序に埋めていく光。
それでいて次第に浮かびあがってくる何かの形。
「紋?」
それは、アクオが描いた〝紋〟そのものであった。
指先から生まれながらも筆で描いたかのように細い線、小さな点は、だがしかしルクトの見たどの〝紋〟より複雑な文様を描いていく。
白い少女の眉間に皺が寄りはじめた。
それでも指先は見えない速さで光の痕を生みだしていく。
ほどなく少女の手が止まり、宙の〝紋〟が白く輝いた。
その形は、ルクトがかつて目にした解熱の火蛇、強壮の鉄床、接骨の鎹、鎮痛の手、催眠の花のどれとも違う——だが眩い輝きは、その脳裏にくっきりと焼きついた。
少女は〝紋〟の中央に人差し指を突き刺し、地面を新しい血で濡らし続けるアクオの傷口の前に跪く。そして〝紋〟を纏わりつかせたまま、指を出血の源に差しこんだ。
「ば——」
慌てて起きあがって止めようとしたルクトの手から、するりと逃げた白く細い指。一滴の血も付いていない。
アクオの身体に残された〝紋〟が、傷口を、脇腹を覆ってゆく。
白い輝きがルクトの目を焼いた。
「わっ!」
目を固く閉じたルクトの耳に、水が蒸発するときのようなしゅうっという音が聞こえる。
視界を取り戻しはじめたルクトの目の前で、アクオの胸が大きく膨らんだ。
はあっと音を立てて息が吐きだされ、聞言師は静かに目を開く。
「アクオ!」
己の顔を覗きこんだルクトに不思議そうな目を向けると、アクオは血に濡れた左手を脇腹に当てた。
「……あれ?」
嗄れ声を洩らしたアクオは、己の名を再び叫ぶルクトに抱きつかれた。その途端、頭の後ろの傷が存在を主張する。
「痛え……」
「あ、ご、ごめん!」
ルクトが慌てて身を起こすと、アクオの顔を照らしていた白い光はすでにない。
「おい、どこ行ったんだよ!」
「誰の……ことだ?」
「さっき、白い女の子がお前の筆から出てきて、紋で……」
「……そうか」
固まりかけた血で粘つく左手の下に、傷はもうない。
「そうか、ペティアが助けてくれたんだな」
身体に力はまだ入らず、頭の後ろは痛む。それでも助かった。命を救われた。
アクオはふうっと息を吐き、右手の聞言筆をぐっと握り締めた。
——これで貸しを返されたわけだ。ずいぶんとまあ、いいものを返してもらえたな。
何とも言えないおかしさがこみあげ、唇の片端がくっと上がった。
「お前、大丈夫なのか」
「うん、頭に傷ができてるみたいだけど、痛いだけだ」
ほとんど光のない空の下で、ルクトの顔はよく見えない。腹を刺されてからの記憶も曖昧だった。それでもアクオには分かった——ルクトが駆けつけなければ、己は今こうしていられなかっただろう。
「ありがとうな、助けてくれて」
ルクトが俯いたように見えた。
「……もっと早く来ればよかった。お前と離れるんじゃなかった」
ぼそりと呟かれた悔いの言葉に動いた左手が、思わずルクトの身体に当たる。
アクオは何気なく、手の甲で叩いた。
「なんだこれ、脚か」
もう一度。
「……そうだよ」
もう一度。
「なんだよ」
もう一度。
「痛いだろ。おれが生きているからだよ。お前のおかげだ、ありがとう」
もう一度。
「お前……怪我治ったら覚えとけよ」
最後にもう一度叩くとアクオは吹きだし、頭の痛みに顔をしかめた。
ひとしきり笑いあった後、あっとアクオは声を上げ、聞言筆を大きな漂陰の石に当てるようルクトに頼んだ。漂陰を吸いとるだけならば——そしてペティアによればそれで十分だった——聞言師でなくともよい。
ルクトが身体を離しながら、目を逸らして怖々と筆を当てているうちに、石の周りの重苦しい空気は薄れていく。きゅうんっと筆が鳴らした小さな音を聞いて、アクオは安堵した。
そしてまた——
——金棒は役に立たなかったな。
漂陰の石の脇に投げだしたままだった松明と棒を見やり、アクオはほっと息を洩らした。
アクオに筆を返したルクトが、意識を失ったままの巫の長衣を手探りで裂き、手足を縛りあげたちょうどそのときだった。
「あ、やっと来たな」
ルクトの目が松明の揺れる光を捉えた。
「おおい、ここだ!」
その声に姿を現したのはサレオとエクテだった。
「アクオ!」
サレオが血相を変えて、横たわっているアクオに駆け寄った。フロニシの居場所を問うルクトには応えず、聞言師の横に膝を突く。
「大丈夫です、腹の傷はもう治りました」
「血で真っ赤じゃないか!」
「筆の漂陰が治してくれたんですよ。頭も打ちましたけど、まあ大丈夫です」
そのときアクオは気づいた。
不得要領な顔のサレオの横で、エクテが小刻みに震えている。
「エクテ、お前も来てくれたんだな」
返事はない。血に染まったアクオの短着を、怯えの色が浮かんだ目で見つめたままだった。
「来いよ」
恐る恐る近づいたエクテの目の前で、アクオはあったはずの傷口に指を触れて見せる。
「……痛くないの?」
「うん、ここに傷はもうないんだ。治してもらったから大丈夫だよ。心配するな」
エクテがぼろりと涙を零し、アクオに抱きついて大声で泣きはじめた。
屈みこんだルクトはその頭に手を乗せながら、聞言師の頭に包帯を巻くサレオにまた訊ねた。
「それで親父は?」
「後から来るよ。足を挫いたんだって」
サレオはそう言いながら、縛られて地面に転がされている巫を松明で照らしだすと、眉根を寄せた。
「ああ? まったく何やってんだよ」
「そのおかげで、あんたらがこっちにいるって教えてもらえたからね。さもなきゃ見つけられなかったかもしれないよ」
なおもぶつぶつ文句を言うルクトに、アクオがにやりと笑った。
「あんまり言ってると、またフロニシに仕返しされるぞ」
「仕返し?」
「初めて〈山〉に来たとき、言われてたろ」
「なんの——あ!」
ルクトが角張った顔を赤らめ、アクオを睨む。
「何さ、なんのことだい」
サレオもルクトの様子に何かを察したように、唇の端を上げる。
「なんでもねえよ!」
涙で濡らした顔を不思議そうに上げたエクテに、アクオはにんまり笑いかけた。
「あのな、ルクトはお前より大きくなったときでもな——」
「やめろやめろ!」
ルクトが必死にアクオを止めようとしたそのとき、近くから低い声が聞こえた。
「なんだ、寝小便を垂れていた話か」
「親父い!」
太い枝を杖がわりにしたフロニシがようやく追いついたことに、気づいていた者はいなかった。
「あれえ? どうして君、元気なの」
いくつもの賑やかな声の隙間に、するりと男の言葉が割りこんだ。
笑んでいたどの顔も、びくりと凍りつく。
「おかしいな、ちゃんと刺したはずなんだけど」
「アイオーニ……」
「フロニシも来たんだね。ああ、サレオもいるんだ」
縛られたままの巫がうれしそうに笑った。
「てめえ、さっきはよくもアクオを刺したな!」
「あ、フロニシの……ルクトって言ったっけ」
血で染まったアクオの短着に目をやったフロニシは、静かな声で巫に語りかけた。
「申し開きを聞こう」
巫は驚いた顔をフロニシに向けた。
「え? 申し開くことなんかないよ。ぼくはここで漂陰を育ててた。今日ももうすぐ石から出てきそうだったのに、そこの聞言師が邪魔しようとしたから刺した。それだけだよ」
「何故だ。何故巫の責を全うせず、漂陰を放っておいた」
「なんでって……もう巫なんてやりたくなかったから?」
顔を見合わせる世話役。サレオの大きな目がぐっと細められた。
「そうかい、じゃああんたは巫の責を放棄した。卑劣な手を使って、たくさんの人に禍をもたらそうとしてきた。そういうことだね」
「ああ、なんかそうやって簡単にまとめられると、ちょっと嫌だなあ。これでもいろいろ悩んだし、苦しん——」
「黙れ」
アクオの横に屈みこんでいたサレオが、すっと立ちあがる。
「世話役の名の下にお前を捕らえる。お前は相応の罰を受けるだろう。次の巫が選ばれるまで、ここは町の聞言師に任せる」
アイオーニが満面の笑みを浮かべた。
「わ、やっと〈山〉から下りられるんだ! こんなことならもっと早くやっておけば——」
よかった——その言葉が発せられることはなかった。
横たわったままのその顔に、サレオの拳がめりこんだのである。
「黙れと言った」
サレオは表情を浮かべずに、手を上下に振りながらルクトに訊ねる。
「あんた、こいつを連れていけるかい」
「お、おう」
気圧されたように、ルクトがこくこくと頷いた。
世話役の携えていた縄で手首が縛り直される。胴にも巻かれた縄の端をルクトがぐっと引っ張ると、巫はおとなしく立ちあがった。
松明と杖を持ったフロニシを先頭にして、巫とルクト、アクオに肩を貸すサレオとその足元を照らすエクテの一行は、岩場と砂地の境をゆっくりと歩みだした。
「ねえアクオ」
やがて巫が横顔を見せて、後ろのアクオに話しかけた。
「さっきの漂陰は鎮めちゃったの」
「……鎮めた」
「ふうん、残念」
その口が笑みを作ったことにアクオは気づいた。
「お前の企みは潰してやったぞ」
突然、巫が身体を折って大きな笑い声を上げはじめた。ルクトが背を突いても、箍が外れたような高笑いは止まらない。
その姿にアクオは眉をしかめ、はっと目を見開く。
「お前、まさか……」
ぜいぜいと喉を鳴らす巫が頭を起こし、アクオに狡猾な笑みを投げかけた。
「……あれだけだと思ってるの?」
誰もが虚を衝かれた。
巫は自由になっていた足を後ろに蹴りあげてルクトに砂をかけ、来た道の方へ走りだした。
一瞬弛んだルクトの手から縄の端が抜ける。
「くそっ!」
ルクトが駆けだす。
アクオもうまく力の入らない脚を必死に動かして、後を追った。フロニシにもサレオにも先を行かれ、エクテだけが足元を照らしながら横を走る。
頭の痛みに呻き声を洩らしながらも進むアクオの耳に、前方から聞こえたのは——ルクトの叫び。
「ルクト!」
ようやく追いついたアクオは、立ち尽くしているルクトの姿にほっと胸を撫でおろした。
横にはサレオもフロニシもいる。
だが見下ろす視線の先には——
「エクテ、止まれ!」
アクオの声に驚いたエクテは足を止め、顔を見上げる。
息を切らしながらアクオは屈みこみ、少年の肩に手をかけて後ろを向かせた。
「エクテ、あっちを見るな」
そう言って、エクテの視界を遮るように三人の方へ歩いていった。
沈痛な顔が向けられた先でうつ伏せに倒れているのは、アイオーニ。
その背を貫いて見えているのは、巨大な深黒の石。
「……いきなり、石の上に倒れこんだんだ」
ルクトの抑えられた低い声にアクオは頷き、ぬるりと重い空気の中でまだわずかに動く巫の身体の横に屈みこむ。
腰の革箱に手を伸ばした、そのときだった。
ぱきん——
甲高い音を立てて、巫の背から突きだしている漂陰の石が、粉々に砕け散った。
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