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【長編小説】横乗り囚人 episode 4

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 午後の業務の大半は、眠気との不毛な争いであって、あっという間に過ぎ去る。この間にあった入電は七か八。何れも朦朧とした意識の中で応対したものだから、記憶には殆ど刻まれていない。

 そして、来る十七時。終業まで残り三十分。

「……はい、そちらの書類に記載されている番号まで問い合わせて頂ければ、他社製品であっても購入から一年以内の不具合に関しては無料で対応して頂けますので、ええ、はい。おっしゃる通りでございます。他にご不明な点はございますか? はい、かしこまりました。それでは、本日は文元が担当させて頂きました。失礼致します」

 この日最後の顧客との会話を終え、先方からの切電を確認した巧は、ふうっと小さく嘆息した。今日も一日なんとか乗り切った。大きなミスもなさそうだ。そう安堵してヘッドセットを外し、顔を上げると、向かいに鎮座するスーパーバイザーの高村が、眉間に深い縦皺を寄せてこちらを見据えていた。

「文元君……ちょっと」

「あ、はい」

 高村は険しい表情のまま、こっちへ来いと謂わんばかりに人差し指を曲げている。どうでまた呼び出しだ。巧は物憂げに席を立ち、等しく並べられた机列の右端で旋転すると、昼頃そうしたように彼のデスクまで歩み寄った。やはり、煩わしい叱責の幕が開けた。

「あー、文元君。もう何度も何度も言っとるけど、自分勝手な判断でお客様に案内するのやめてくれへんか? マニュアル通りに喋ってくれへんと、成果に繋がらんだろう。さっきの対応なんか、もう全然ダメやぞー。三十分も無駄に話し込んで、挙げ句の果てに他業者の無料サービスを案内するって、なーんもうちの会社に利益を生み出してへんやないかー。おー?」

 高村は、こちらをキッと睨みつけた。巧としては、客の要求に応えられるよう必死に考え抜いた末の案内であったのだが、マニュアル至上主義のコールセンターで、スーパーバイザーまで上り詰めるような随一のマニュアル人間には、到底理解不能なロジックである為、あえて噛み砕いて弁明する気にはなれなかった。

 そもそもの話、巧はこの仕事に就いてまだ二月足らずである。まして非正規雇用の末端オペレーターだ。正規雇用のベテランオペレーターや、さらに上のスーパーバイザー基準で評価を下されては堪らない。巧は内心毒づきながらも、果然すみませんと平謝りする羽目となった。以後も、高村からの激しい叱責は続いた。

「だいたいなー、文元君。君はいっつもそんな感じやないか? 基礎知識が不足しとるから、イレギュラーなお客様に対応できひんのや。いつまでも新人気分じゃあ、痛い目に遭うぞー。おー? 君は一体なんのために働いとるんや? 君と同年代の奴は、普通ならもっと責任のある仕事をしとるんやぞー。ああーん?」

 結句、この説教は十七分に及んだ。たった十七分、然れど、果てしなく永い十七分だった。巧は、その間幾度となく目前の高村を殺す妄想を繰り返していた。無論、思いつく限りの残虐な方法で、だ。

 切れ味の悪い小刀で鼻や耳を力任せに削ぎ落とし、眼球には釘を打ち込み、縦横無尽に胴を切り刻んだ。足の指先からジリジリと火炙りにし、苦痛に耐えかね開いた口の中に、絶え間なく熱湯を流し込んだ。また、気が済むまで肉片を殴り、蹴り、踏んだ。

 お得意のタイマン勝負であれば、高村なぞに負ける気はさらさらなく、仮に百戦しても百勝できる自信はある。経済的困窮という事情さえなければ、腕力を以て容易に屈服させられる相手なのだ。法に遮られぬ世であれば、先刻も十七分と無意味に消費せず、目前の愚か者を華麗に始末していたか、或いは豪快な殺戮ショーを開催し、悪趣味な小金持ちから幾らかの投げ銭を頂戴していたに違いない。いつかニュースで見た、同僚を傘で滅多刺しにして惨殺した男の気持ちが、なまじ他人より暴力性向の強い巧にはよく分かる。

 だがしかし、その人道から外れた行いが許される世ではないことや、実行に移すだけの度胸が既に削がれてしまっていることも、とうに識っていた。故に致し方なく、脳内のオンボロシミュレーターをフル稼働し、ちっぽけなカタルシスを得るだけで勘弁してやったのだ。

 高村に限らず、かの柳田や佐藤にしても、職場で減らず口を叩く愚民の多くは、原則としてつかみ所のないノータリンである。嘗て自分がそうされたことに対する当てつけなのか、浅薄な厳しさを正義と勘違いした、救いようのない阿呆である。とどのつまり、社会とは、そんな見栄えばかり気にして取り繕う小心者が作り出した幻影であり、虚像であり、痰壺であり、ぼっとんトイレでもあるのだと、巧は結論づけた。

 それでも、辛うじて社会とやらが正常に廻り続けていられるのは、元来途方もない残虐性を秘めている人間もとい妖怪の大多数が、ありもしない何かに怯え、都度気を小さくしたり大きくしたりして、それを見かねた我々が決して認知することのできない上位的な虚空から垂れ落ちた蜘蛛の糸に、これまた偶然縋りつけたおかげであろう。命まで取らねば、平民同士の暴行、傷害など、暗がりの中に封殺されてしまうのが常であるというのに。


 時は現に戻り、怒り心頭といった様子で喫煙所に向かう高村の背中に向かって、心の中で「しねぼけ!」と物騒な呪文を唱え続けていた巧であったが、次第に虚しさが増幅し、束の間の静寂が訪れ、萎えた姿勢のまま自席に戻るのであった。

 かくして、高村からの叱責に敗走し、一時は肩を落とした巧であるが、間もなく終業時刻となり、これより勃発する帰宅戦争に備え、今はただ心頭滅却に努めていた。

 終礼のないコールセンターでは、退勤時刻を迎えたオペレータが徐に立ち上がるのを合図とし、誰も彼も泥人形のようにねっとりとした動きで出口を目指し出す。そこに何があるのかと問われれば、彼らは口を揃えて云うだろう。自由と。

 さて肥溜めの住人たちだが、ひとときの安らぎを欲して宙を掻いている真っ最中。生き地獄から逃れるまでの数秒間、見えもしない希望を追い求め、歩き出したのだ。巧もまた、彼らに後れを取らぬよう立ち上がり、黙々と帰り支度を始めていた。

 支度を終え、さあ、帰ろうかというまさにその瞬間、不意に強く肩を叩かれた。反射的に振り向くと、派遣社員の青年が佇んでいた。

 川井幸広。彼も巧同様、無能の象徴のようなオペレーターである。歳は巧より一回り下のジャスト二十歳。痩せこけた頬と、重いボウル型の髪が相俟って、カマキリにキノコ傘を被せた突然変異ではないかと錯覚しかける。大袈裟に言えば、だが。ともかく、巧にとって川井は、いやに鼻につく少年という認識であった。

 川井は、現役の大学生とのことだが、本人曰く今は諸事情により休学中であり、日銭稼ぎのため、なんとはなしに非正規労働を転々するうち、この肥溜め運河に流れ着いたらしい。

 席が近いというだけの理由で、いつからか川井の方から馴れ馴れしく接してくるようになった。つい半月前からのことだ。巧は、同じ翳りの中にいながら妙な明るさを持つ彼に対し、いつも言い表しようのない不快感を覚えていた。

 川井は、

「お疲れっす」

 とだけ述べ、ニタニタと不敵に笑っていた。

 巧は思わず顔をしかめた。彼に対する個人的な苦手意識を差し引いたとて、戦時中に無益な雑談を仕掛けられたとあれば、誰であろうと良い顔ができる筈がない。

 だが、そんな感情はおくびにも出さず、十二下の若造相手に決して口調を崩すことはせず、加え、ぎこちない愛想笑いを浮かべる余裕を見せた。

「ああ、川井さん。お疲れ様です。自分に何か用ですか?」

「文元さん、今日はこの後予定あるんですか?」

「はあ?」

「いやだから、暇かどうか訊いてるんすよ」

 川井は、いやに刺々しい口調でそう云った。この忙しない時に喧嘩でも売るつもりだろうか。正直なところ、その態度には強い苛立ちを覚えていた。少しは口の利き方を弁えろと。そう思うなり、無意識のうちに拳まで握り締めていた。がしかし、ここで怒り任せの怒声を挙げてしまえば元の木阿弥。またぞろ上司から叱責を受ける羽目になるどころか、一撃解雇も有り得ない話ではない。それだけは避けねばならない。

 で、巧は努めて冷静を装い、だが歯切れは悪く、

「いやあ、まあ、ええ」

 と応えた。すると、川井はまたしても憎き笑みを浮かべ、

「お、じゃあ丁度良かった! 実はおれ、一杯飲んでから帰ろうと思ってたんすよ。本当は友達と合流して行く筈だったんすけど、さっきス携帯見たらドタキャンされてて……だから、文元さん一緒に行きましょうよ」

 などと調子づく始末。巧は絶句した。こいつは何を云っているんだ。何が丁度良いんだ。何がドタキャンだ。鬱陶しい。煩わしい。忌々しい。ただでさえ生き地獄のような日々の中、こんな無礼な若造とサシ飲みをする時間があれば、家に帰って意味もなくネットサーフィンでもして、泥のように眠ってしまった方が良いに決まっている。

 零れ出てしまいそうな負の感情を必死に押し殺し、どうにか断る術がないかと探る巧であったが、如何せん間が悪く、最後は川井に丸め込まれてしまうのだった。


 かくして職場を後にした二人は、駅方面へと歩いていた。会社を出てから暫くと道沿いに進んで来たが、二人の間に会話が流れることはなかった。いや、厳密にはあったのかもしれないが、川井がそのひん曲がった口から零すのは決まって、安い風俗か安い酒の話題である為、一瞬たりとも巧の記憶に刻まれることなく、知らぬ間に消失した可能性が否めない。

 街には、酔っ払いたちの陽気な歌声が響いていた。行き交う人々は誰も楽しそうで、これから向かう場所への期待感を膨らませているようだ。仕事終わりなのか、スーツ姿のまま、ほろ酔い気分で歩くサラリーマンもいる。春といえど、三月の夜はまだまだ冷え込むため、皆揃って厚着をしているが、それがかえって夜の街並みに似合っていた。

 考えてみると、巧は独り俯いて帰る細道の中で、こんなにも辺りをゆっくり見渡したことは、これまで一度もなかった。幾度となく往復した道の筈が、こうして見ると、まるで別世界へ迷い込んだように感じる。それがまた、なかなかどうして悪くない。

 そう思った矢先、川井が立ち止まり、こう呟くのだ。

「なんかいいっすよね、こういうの」

「え?」

 思わず訊き返してしまった。川井は依然として前を向いたままである。

「あそこのおっさんとか、そっちにいる三人組の学生とか、まあみんな窶れ切って酷い顔っすけど、ああやって酒に溺れている時とか、これから溺れに行くぞって時の顔は、なんか綺麗なんすよ。そんな人間たちの不思議な綺麗さも相俟って、街が綻んで見えるというか、なんとういうか、嫌いじゃないんすよね。こういう夜のひとときが」

 彼はそう云うと、再び歩き出した。その足取りは、先程よりも軽やかだ。
 不覚だった。意外だった。たとえ偶然でも、同じ時同じ場所で、自分と似た想いを抱えていることに、巧は内心動揺していた。当然、表情には出さないが。

 そして悩んだ末、ムキになって反論を探すのも大人げないと思い、ここだけは素直に同意してやることにした。

「それについては、私も同感ですな」

「あ、やっぱり文元さんもそう思います? いやあ、共感してくれる人がいてよかったなあ」

 川井の声色が明るくなる。巧は、その声に反応して自らの身体がほんの少し温かくなるのを感じ取ったが、あえて気付かぬ振りをしておいた。

 それから二人は、また黙々と歩き続けた。相も変わらず、淡々と同じような細い道を進むだけの時が続く。それでも不思議と嫌ではなかった。曩に交わした会話を境に、巧は川井に対して抱く嫌悪感が薄れつつあることを自覚していた。

 不意に川井が足を止め、一軒の小さな居酒屋を指差した。

 ゆき。朽ちかけた木の看板に書いてあるのは店名だろうか。店の扉を開けると、カランコロンと懐かしいカウベルが鳴る。酒瓶が並んだ棚の向こうから、白い髭を生やした店主が顔を出す。気難しそうな顔をしているものの、どこか愛想の良さを感じさせた。

「いらっしゃい」

 矯飾のない真っ直ぐな声が、二人を店の奥へ迎え入れた。店内を見渡すと、カウンター席しかない小さな店のようだった。客は、一人もいない。
 二人が奥から並んで座ると、白髭店主は待ちわびたと云わんばかりにこちらへやって来て、無言のままメニューを差し出してくる。そこには、値段が書かれた紙が貼り付けられていた。

 どうやら、ビール一杯につき五○○円ということらしい。川井はともかく、飲みの席に顔を出すことは疎か、独りで酒を飲むことすら滅多にない巧には、それが安いのか高いのかいまいち分からない。

 一先ずは無難に、ビールを頼んでみることにした。巧、川井の順に、

「ビールで」

「それじゃあ、自分もビールで」

 オーダーすると、白髭店主は、

「はいよ」

 と一言だけ云って視線を落とし、それから二分と経たずに、

「どうぞ」

 均等に注がれた生ビール二杯が届いた。

 一口、二口と胃に流し込むと、ビール特有の苦味と共に、喉越しの良い冷たさが全身を駆け巡った。


 三人で過ごす店内には、沈黙が付いて離れなかった。ビールジョッキが立てる硬い音、壁掛けの古時計が刻む時の音、引き戸越しに聞こえる街の喧騒、空間を支配するのは、そんな音たちだ。

 それから程なくして、カウンターにガラス製の小皿が何枚か並べられた。向かって左から、枝豆、唐揚げ、ポテトサラダといった具合だ。何れも、川井のオーダーである。

「文元さん、遠慮しなくていいっすよ」

 川井の言葉を皮切りにして、二人は箸を手に取り始めた。巧は唐揚げを口に放り込み、川井は枝豆を摘まんだ。互いに、

「なかなかいけますな」

「そうっすねえ」

 という社交辞令のような言葉を呟きながら、ひたすらに咀噛を続けている。巧は、腹持ちの悪い居酒屋のつまみと酒に、安くない金を払う気がない。故に、自らオーダーをするようなことはない。その心情を察知したかは不明だが、川井も、これ以降のオーダーをしなかった。皿が寂しくなってもなお、二人はちまちまとビールジョッキに口をつける。そうして間を持たせることに厭いてしまったのか、川井が突如として切り出した。

「文元さんって、おいくつでしたっけ?」

「自分は、三十二です」

「へえ、おれが二十歳だから、十二個も上なんすね」

「まあ、そういうことになりますな」

「今までは何をしてたんすか?」

「大学を出て暫くは、テレビ局の仕事に携わっていました。が、どうも肌に合わなかったもので、思い切って退職しまして、その後は自動車メーカーで製品のインスペクション(製作ラインに流れる部品の検品という単調作業)をやっていました」

「すんごい経歴っすね」

「いえいえ、大したことではありませんよ」

 実際問題、大したことではない。何せ、ここで言うテレビ局の仕事とは、二ヶ月で辞めた芸人養成学校在学中に、たまたまそとのきの生徒全員でローカル放送の取材を受け、成績と評判の良かった期待の新人なぞが、局のインタビュアーと話している最中、画面の端にどうにか映るか映らぬかの境界線で、ぽつんと佇んでいただけなのだから。後者の検品云々については、重ねての説明は不要だろう。

 このとき芸人と名乗らなかったのは、少々図に乗りやすい気質がある川井が、もしそこに興味を持って具体的な活動や出演歴等を掘り下げてきた場合、疑われずに対応できるだけの材料を持ち合わせていないからである。まして、二ヶ月で挫折したきり、この歳まで非正規労働を転々としてきたと、馬鹿正直に言おうものなら、如何様に軽蔑の眼差しを向けられるか分からない。

 で、とどのつまり上手いことはぐらかしたは良いが、

「じゃあ、なんで今更コールセンターのアルバイトなんてしようと思ったんすか?」

 と続けざまに爆弾を投下される。

「自分もこう見えて、訳ありなんです。それに自分の見立てじゃ、コルセンなんかで働く人間は、何かしらの事情を抱えている者ばかりです。川井さん、そう云うあなたも、人に話せない過去を、一つか二つ抱えているんじゃあないですか?」

「はあ……人に話せない過去ですか。んー、おれにはそういうのはないっすね。まあ、コルセンで働く奴がみんな変わり者だってのは、なんとなく分かりますけど」

 柔和な雰囲気を醸しながら、しかしどこか他人を見下しているような口ぶりで話す川井に、もはや苛立つより深く考えてしまう。果たして自分は、どう見えているのかと。

 年も経験も巧が上、大学も、おそらくは数ランク上に違いない。容姿は甘く見てもどっこいどっこい。もしも川井という男に何か秀でた能力や才能があれば、少なくとも今この場には居ない。であるにも拘わらず、巧の中にかかる靄は晴れない。一体、何だというのか。穿って見ると、それは案外単純なものだった。

 巧自身がそうであるように、川井もまた、他者にマウントを取っていたい側の人間であるのだ。だから自分のことに関しては多く語らず、他人のことを根掘り葉掘り訊こうとする。自分よりも劣っていると思われる人間の、その最も醜悪な部分を暴くことで、要は優越感に浸りたいのだ。

 何より皮肉であったのは、つまらない感性まで似通っていることだ。夜のネオンを叙情的に捉えるとか、町を彷徨する人々の営みを文学的に言い表すとか、それらはとどのつまり、自分は人とは違うという、淡く醜い主張の最たるものであるのだ。

 となると、巧と川井の明確な相違点は、精々年齢くらいのもので、二人を良く言えば同志。悪く言えば同じ穴の狢である。そう思うと、巧はすべてが馬鹿馬鹿しくなった。何を張り合うことがあるのだと。この若造にしろ自分にしろ、端から見れば末端の非正規労働者であって、それ以上の価値はないのだと。

 川井がどんなことを思い次の酒を胃に流し込んだかは不明だ。が、しかと巧だけは、もう辞めにしよう。今日出会った同類の男と話しているうちは、プライドなど捨て、肩肘張らず、気楽に行こうじゃないか。と、静かなる決意を固めていた。


「あの、文元さんって彼女はいないんですか?」

 続いての話題はそれだった。

「いませんよ」

「どれくらい?」

 この問いには一瞬詰まったが、直ぐと答えを返した。

「そりゃあもう、全然」

「へえ……そうなんすか」

 巧は、この手の話題を振られると、いつも答えを見失う。見失うというより、未だ答えを見つけていないという方が正確だろうか。何せ、三十二年生きて、その間恋人関係になった女の数はゼロである。それが社会的マイノリティであることや、一端に恋愛経験を積んだ同年齢の者にとって、俄には信じ難いことであることを、十分に理解しているからこそ、返答に困ってしまうのだ。

 ありもしない色恋話をでっち上げられる程器用ではないし、生まれてからこの方恋人がいないことを、ユーモラスな表現に乗せて伝えることも難しい。結局無難に乗り切ろうとするがあまり、曖昧且つ面白味のない返しで場を冷やすのが常であった。

 巧は、それから暫く川井の出方を窺っていた。彼は、ジョッキを傾けながら時折こちらの顔色を覗き見ている様子だった。

 沈黙が流れる。自分の心臓がドクンドクンと脈打つのを感じられる程に、何もない時間が過ぎ去った。

 川井が、漸く口を開いた。零れ出すのは同情か、或いは嘲笑か。しかし、次に聞こえた言葉は、そのどちらでもなかった。

「おれ、彼女とかいたことないんすよね」

 巧は思わず耳を疑った。同時に驚嘆もした。川井の風貌は決して眉目秀麗とは言えないが、流行りのキノコヘアーとノリの軽さからして、女の味なぞ当たり前に識っているものだと思い込んでいたからだ。巧が呆気に取られていると、彼は続けて云った。

「文元さんは、いたことはあるんすか?」

 先刻上手く逃れたつもりだったが、こう訊かれてはもはや逃れようがない。諦観して本音をさらけ出すという選択もあったが、ただの同僚相手にそこまでする義理もないだろうと、心の内でそっと冷淡な判断を下す。そして、適当に「ええ、まあ」と相槌を打とうとしたところで思い留まった。この男には、もしかすると本音を言うべきかもしれない。根拠もなくそう直感したからだ。

 巧は、改めて考える。果たして自分は、これまで他人に胸襟を開いて語り合ったことがあっただろうかと。否である。少なくとも、記憶の中には見当たらない。いつも適当な相槌で受け流し、自己開示をすることは頑なに拒んできた。が、もしやこの男ならば馬が合うのやもしれんと直感で感じ取り、
「実を言うと、自分もありません」

 泰然たる声色で述べてみる。と、

「え?」

 川井は素っ頓狂な声を上げ、あまつさえ疑るように顔を歪めた。

「本当に云ってます?」

「ええ」

「じゃあ、これまで女性と一夜を共にするとかっていう経験もなく?」

「もちろん」

「へえ……」

 二人の間に、またしても沈黙が流れ始める。しかし、心なしか曩の気疎い静寂より過ごしやすい。

 やがて、仄かに緩い表情を浮かばせ、川井が云った。

「おれの世代は、割とそれが普通な気がするんすよね。その、恋愛経験なしってのが。ちょっと前までは、好きでもない女に片っ端から泡沫の愛を叫んだりして、是が非でも恋人を作ってやろうって考えが主流だったのかもしれないっすけど、今はむしろ、そういう奴の方が少数派っていうか、モテに執着しない奴が増えた感じがします」

「なるほど。まあ分からんでもないです。かくいう自分も、さほどモテには執着していませんから。まあ、自分の世代は川井さんよりかは多少上になりますけど、ブームの先取りだと思っていただければ」

「でしょ? だから、ちっぽけなことだと想うんですよ。これからの長い人生、いろんな人間と出会う中で、本当に心から愛しく思える女性と巡り会えたなら、その時に初めて恋というやつをすればいいだけで、今すぐどうこうって話じゃないんですよ」

「ううむ、確かに」

「……おかしいことじゃないっすよね。別に」

 最後は、そう独りごちる川井だった。熱弁を聞き終え、視線をジョッキに戻す巧。気づいてしまった。川井幸広という男が、限りなく自分に近い位置で生きていることに。

 職場で知り合った川井を、今日までなんとなく忌み嫌っていたのは、その根源にあるものに対し、それはある種の、謂わば同族嫌悪のような、思わず目を背けたくなる感情が働いていた所為だろう。彼の笑顔に苛立ちを覚えるのは、そこに巧自身が抱える弱さを投影していた所為かもしれない。

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