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古くて新しい廻り舞台の上で

『まわり舞台の上で』――2年ほど前に刊行された荒木一郎のメモワールの書名だ。多岐にわたる足跡を自ら俯瞰してみれば、どこか大きな渦に身を委ねていた感覚があるのだろう。けして卑下ではなく、渦の一部となる恍惚すら感じられる。

今年9月の歌舞伎座・秀山祭、夜の部では「廻り舞台」が印象に残った。

一つは、吉右衛門の『俊寛』。

鬼界ヶ島に流罪となった俊寛一行の話だ。貧しい島暮らしで疲弊する中、都から恩赦船がくる。だが、俊寛は乗らない。若い男女の未来を思いやり、ひとり島に残るのだ。

沖を離れていく船。繋いでいた縄を、吉右衛門の俊寛は一度ぐいっと引き寄せると、海へ投げつける。未練ではなく、自棄でもなく、私が感じたのは鼓舞である。

幕切れ、俊寛は砂浜から岩場へとよろよろ歩いていく。回転盆が「半廻し」されると、客席から島を見る角度が変わり、海に岩場が浮かんでいるように見える。絶海の孤島。孤独と絶望に呑まれそうになりながら、俊寛の胸のうちに、先ほどの鼓舞はまだかすかに灯っているように見えた。

続く玉三郎の『幽玄』。太鼓芸能集団・鼓童と組んだ新作歌舞伎舞踊で、「能」をテーマとする3幕から成る。

その1幕目、『羽衣』のやはり幕切れである。玉三郎の天女が、天空へと昇っていく。

このとき盆の上で回るのは、地上の人々だ。花道近くで舞う玉三郎から、地上がぐんぐんと離れていくような視覚効果となる。そうしてある程度まで飛翔すると、今度は天女が盆に乗り、さらに舞い上がる。幾何学的なフォーメーションが、鼓童の打つ抑制のきいた四拍子とあいまって、超自然的な光景を引き立てていた。

廻り舞台がもたらすのは、視覚効果だけではない。客席から見えない面にあらかじめセットを準備しておくことで、短い場面転換も可能となる。

この舞台機構の発案者・並木正三が、「狂言作者」であることの意味は小さくない。その工夫は、初めから戯曲構造の高次化とともにあったのだ。

盆が回ると、観客の前に別の場所が現れる。回った先で、芝居は食い気味に進行している。「と一方、その頃」とでも言いたくなる瞬時の転換により、いまやSNSのタイムラインだって舞台上で表現することが可能だろう。

昨年、豊洲にできたIHIステージアラウンド東京は、世界で2番目の「客席が360度回転する」劇場だ(1番目はオランダのシアター・アムステルダム)。杮落とし公演となった劇団☆新感線の『髑髏城の七人・花鳥風月』は1年以上に及ぶロングランの末、約55万人を動員した。今年7月からは、新感線☆RSとして『メタルマクベス』の公演が半年間続く。

秀山祭と同じ9月、その『メタルマクベス』のディスク2を観た。ディスク1から3までで配役が変わり、2では主役となるランダムスター(マクベス)を尾上松也、ランダムスター夫人(マクベス夫人)を大原櫻子が演じる。

冒頭、3人の魔女ならぬ、某メタル系アイドルに寄せたビジュアルの3人組が歌う。その歌詞に、ランダムスターの運命を左右する預言が組み込まれている。3人は曲が収録されたCDをランダムスターに授ける。メタルマクベスというバンドのアルバムだという。

預言のせいなのか? それとも自ら望んだことなのか? 運命と自由意志の狭間で気を病みながら、ランダムスター夫妻は破滅へと突き進む。尾上松也と大原櫻子、若いカップルのはじけっぷりが鮮烈だった。

CDという物理ディスク、ヘヴィメタル的な意匠でもある大型バイクのタイヤ、運命の歯車はギアを上げていく。肝心の客席の回転は案外ゆっくりだが、スクリーンやプロジェクションマッピングの効果が加わることで、客席が自在に動きながら舞台を眺めている感覚になる。

翌10月から公演の始まった2・5次元舞台の最先端、ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー‼』の最新作「最強の場所」では、舞台中央に小ぶりで傾斜もつく回転盆が据えられていた。場面転換に使われるわけではない。なにしろ、場面はほぼ試合コートに固定されている。

どストレートな2幕構成だ。主人公たちの烏野高校が、春高バレー宮城県代表決定戦の準決勝(青葉城西高戦)、決勝(白鳥沢学園戦)の2試合をこなす。場内アナウンスも、そのまま試合会場のものとなる。あわせて3時間超という上演時間も、リアルな試合の体感時間に近い。

舞台中央の回転盆からは、ボールのイメージだけでなく、攻防のスピード感や、各チームからの視点を均等に見せるという強い意志を感じた。2.5次元ならではの原作カット使いも効果的だが、リアルタイムで俳優を大映しにして見せる手法は、まさにスポーツ中継の臨場感をもたらす。俳優のアクションのキレとバリエーションに、思わず手に汗を握ってしまう。

演出・脚本のウォーリー木下は、演劇のドラマツルギーが「生きるか死ぬか」という題材で輝くと指摘した上で、「ひたすらバレーボールに打ち込み、誰も死ぬことがない『ハイキュー‼』でも、観客を感動させるドラマをつくることができる」と証明したかったと言う。たしかに、有言実行されている。

と同時に、こうも思うのだ。

青葉城西も、白鳥沢も、敗れた者たちはコートを去る。3年生にとって最期の試合。これは擬似的な「死」に近いのではないか。「卒業」という臨界点。しかしたとえ死すとも、意志は次世代へと引き継がれていく。

演出家、役者、観客もまた、一人一人の時間は有限だが、そこに舞台があるかぎり、続くものがある。例えば「襲名」という仕組みはそれを可視化する。

須賀健太を初めとする烏野キャストも今回の公演で全員が卒業となる。そして廻り舞台に乗って、新しい日向や影山となる者たちが、またここへとやってくるのだ。

(初出:『文學界』2018年12月号)


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