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退屈の反対は「興奮」

 最近、衝撃的な本に出合ってしまった。「午前0時の森」でオードリーの若林さんが紹介していたのと、面白いタイトルに惹かれたから買ってみた。

 「暇と退屈の倫理学」というこの本は、現代の資本主義社会に生きる人間の「暇と退屈」について哲学的な視点から論考している。

 まだ読んでいる途中だけれど、僕がモヤモヤしていた出来事をどんどん言語化されていてゾワゾワするので、気になったキーワードがあったら随時noteに書いていこうと思う。

 今回は、「退屈」の対義語について。

 資本主義社会になり、格差はあるものの、人は裕福になった。大昔のように、毎日生きるための狩猟をする必要はない。忙しさの尺度はもちろんあるものの、日々に「暇」が生まれた。

 その「暇」にさらに資本主義がつけ込む。暇や退屈を埋めさせるために、「これをしろ」と言わんばかりに広告やレジャーの情報が流れ込む。人はその情報をもとに時間を消費する。もはやそれは無自覚であるし、人間がじっとしていられないことをよく表している。

 パスカルは「部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、【苦しみを求める人間】のことにほかならない」と言っている。

 そしてラッセルは、「退屈する心が求めているのは、今日を昨日から区別してくれる事件である」と言う。その事件の内容はどうでもよく、不幸でも悲惨な事件でもよい。

 つまり、退屈の対義語について著者は「退屈の対義語は快楽ではなく興奮である」としている。


ウーーーーーン、ヤバイ。

 個人的には、見事に言い当てられてしまった感がスゴイ。退屈だな、というとき、「楽しいこと」だけを求めていないときがある。大事件が起こると興奮し、退屈な気持ちが吹き飛ぶときがある。

 現状のSNSなんかを見ていても同じような気がする。

 一見どうでもいいような芸能人の不倫ニュースとか、政治家のスキャンダルを嬉々として叩く人がたくさんいる。あらゆる言葉を使って罵る人はまた、「興奮」を求めているのかも。

 「暇な人だな」とかってその人たちを揶揄する人も多いけれど、その人もまた「叩く」ことによって興奮を覚える。

日常の「退屈」を埋めるのに、手っ取り早いのが「興奮するニュース」だったりするのだ。まともな政策論議や、丁寧に取材されたニュースはバズらず、スキャンダルが世の中を駆け巡るように拡散されるのは、まさに「興奮」のためなのだ。

 もっとまともなニュースを出せと「マスゴミ」と叩くのも、その言葉の裏には退屈を埋めたいという欲求があるのかもしれない(もちろん、貴重なご意見は当然受け取るし、マスコミに直さなきゃいけない点は多々あります)。

 まあ、簡単に結論づけるのは危険だけど、人にとって「興奮」という要素は生きていく上で一番と言ってもいいほど重要なのかもしれない。

 だからこそ、その根源である「暇と退屈」とどう付き合わなきゃいけないのか、それはもう少し本を読み進めたいと思う。

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