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倍率=質の低下?

しょうもない言葉遊びよりも、最近は心にうつりゆくよしなしことを書きたいがために書いている56日目。
今日も読んでくださっている稀有な方々、ありがとうございます。

倍率が下がった。首都である東京都の教員でさえ1.1倍だ。
もう教員は本当に誰でもなれる仕事になってしまった。でもしかですら、教師にはならないぞ。
倍率に対して、そんな声を聞くことが多くなった、ここ最近です。

もちろん倍率については、低いよりも高い方がよりたくさんの中から選抜されてくるだろうし、それによって教員の質が高くなるということがあるのかもしれません。
ただ、ただですよ。倍率が下がった=質の低下だっていうのは、あまりにも物事を簡単に考えすぎているんじゃないかって思うわけです。

今年はありがたいことに、これから教員採用試験を受験するという若者と関わり合う機会が多いです。
そんな中で彼ら彼女らはやっぱりどんなに倍率が低くても「低いから大丈夫です」ではなくて、「やれることを精一杯やります」と言葉にし実際に努力しているし、採用試験の勉強も現場に出てからの不安も、これまでと同じように感じています。

もちろん自分の周りにいる人たちだけがそうだという可能性も捨てられませんが、なりやすくなったからといって、丸ごと質が下がるのかと言われたら、そうでもないような気がしているわけです。

それからですね、例えばじゃあ倍率の高かった時に受かった先生方が、みんな果たして本当に優秀だったのかって言ったら、決してそういうわけではありませんよね。毎月送られてくる服務事故を知らせる文書に若者ばかり載っているわけでもありません。
もっと言ってしまえば、政策に違いはあるでしょうが、今の学校現場の労働環境や体質を作ってきているのは、そうして倍率が高かったころの教師や教育委員会、国の人々なんじゃないでしょうか。時代のせいだけなんでしょうか。

結局、現場にいる自分達にできることは、
「今の新規採用って、私たちの頃に比べてはるかに受かりやすいし、きっと能力も高くないよね」
といった、否定的な頭で最初からその人と関わることなのではなくて、
「この風当たりの強い時代に教師を志してくれてありがとう。共に頑張ろう。」
という温かな関わりだと考えています。

まして、ほぼ全ての教員は4月から用意どんで、担任や授業を任されるわけです。
どんなに大学で理論知を積み重ねてきたとしても、実践知がない、経験がないことが当たり前です。
教員の働き方には、もうブラックという言葉がつきものになってきてしまっていますが、そうした中でもどうやって、この仕事の魅力を一人ひとりが自分のこととして発信していけるのかが、鍵になってくるのではないでしょうか。

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