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続・ピアノの話

7000円くらいのCASIOのキーボードと、1000円ちょっとのヘッド・フォンをヤマダ電機で買ってきたのは、半年ほど前のことである。
疫病の大流行が全人類の行動制限を強い、わが国では「巣ごもり需要」という言葉が生まれるなか、楽器を始める中年男子が多いという話を、本当かうそか知らないが、ラジオで聞いた。
わたしがこの度CASIOを手にするまでの経緯はもう少し長く、数年前にさかのぼる。
もともとは生まれたばかりの娘に頂いたピアノのおもちゃに、たわむれに指を乗せたことに端を発しており、メロディを鳴らすことの喜びを、すでに少なからず味わっていた。
それでも一年以上にわたり自粛が叫ばれ、ステイ・ホームが連呼されるこの期間にキーボードを買ったことに、どこか遠くの屋根の下、顔も名も知らぬ同世代の中年男子・女子が義務教育終了以来の楽器を手にする風景を思い描き、ひそかな連帯意識を感じざるを得ない。


キーボードには、ボタンがたくさんついている。
まずは音色を選ぶ各種のボタン。あと、リズムパターンを選択し、操作するボタン。もちろん、音量を調整するツマミ。
このような安物のキーボードにありがちなエフェクターや、サンプリング機能はついておらず、代わりに、というわけでも無いだろうが、太鼓の音が鳴るだけのばかばかしいボタンが5つもある。これは一つのボタンにひとつの音色だから、とてもぜいたくな機能と言わなければならない。
実際は機械の操作スペースをそれらしく埋めるためだけのボタンにも思え、最初はCASIOの製品開発担当者の真意をおおいにいぶかしんだものだが、のちに重宝するようになった。


さて音色であるが、うたい文句としては100種類の音が内蔵されている。
ピアノ、オルガン、エレクトーン、シンセサイザー、チェンバロ風などなど、鍵盤楽器の音だけで十数種類、ほかに弦楽器風、管楽器風、電子楽器風、また列車の通過音やヘリコプターの羽音のような効果音系もある。
100種類あって等しく使うかというと、無論そうではない。人によって偏りがあると思うが、わたしの場合ここしばらく下記のローテーションにほぼ決まってしまっている。

1・トランペット
2・ヴァイオリン
3・シンセサイザー

ピアノの音を自分で弾いてみて気づかされたことのひとつに、
「ピアノの音は、単音だけだと物足りない」
ということがある。
楽譜が読めず、楽器の経験もないわたしは、まず使用する指は基本右手の五本のみ。それで、例えばピアノ曲であれば、子供のころから親しんできた「調子のよい鍛冶屋」とか、簡単なメロディ部分をなぞってみるのだが、それでも結局左手で響かせるべき低音部が存在しないと、どうにも頼りなくて面白くない。
で、素人でも出来る範囲で、二音くらいの邪魔にならぬキーを、リズムに合わせゆっくり和音風に左手で押さえてみたりするのだが、やはりどうにも言いようもない物足りなさ、不完全さばかりが際立つ。
そこで、トランペットですよ。
トランペットの音というのは、これはわたしなりの大発見だとおおいに威張りたいところなのであるが、右手だけで鳴らせてみても、それほどさみしくないのだ。これは、もともと管楽器というものが、単体だけで和音を奏でられないことに由来しているのだと思っている。
中高生時代、地元の中央図書館で貸し出していたジャズのCDを、自転車で三十分かけて通い続け、タダなのをいいことに借りまくってはカセット・テープにダビングし、繰り返して名匠の演奏を聴いていた。
アルバム名も曲名も演者さえすっかり忘れてしまっているが、その中でサックスやトランペットの思い出せるメロディを再現すると、われながら、それなりに聴けるのである。
さらに、適当なジャズっぽいリズム音を流し、即興演奏風にパラパラやってみても、例えばピアノであれば逆立ちしたってビル・エヴァンズ風やチック・コリア風にはとてもならないのに対し、トランペットの音だと、幼児画の中の気の抜けたマイルス・デイヴィスⅢ世の調子悪い時の嫁の演奏程度には、まあまあ似せているような気がしないでもないのである(当社比)。
この即興演奏で活躍するのがくだんの打楽器ボタンで、単音のでたらめなトランペットの合いの手に、スネアのドッドド、ドスドスとか、シンバルのシャシャシャシャ、シャシャサササ、なんてのが妙にそれっぽく聴こえて、たまらんのである。

さて次にヴァイオリンの解説である。
これはわがCASIOの中では40番と41番に相当する。
こういうところも、この手のキーボードユーザーのあるあるなのでは、と思うのだけれど、お気に入りの音色はみんな番号で覚えているはずだ(ちなみにトランペットは46番)。
35番がキーキーうるさいばかりのヴァイオリン(フィドル風?)の音で、これはまったく出番がないのだが、この40番と41番は正確に言えばヴァイオリンの集合体、すなわちシンフォニーの音色なのである。
ヴァイオリンの集合体=シンフォニーの音と言って、それほどひどい暴論ではないだろう。
シンフォニーの音を、音楽教育など受けたことないただのサラリーマンであるわたしが、おのれの太い指一本をキーに乗せただけで出せるのだから、有頂天にならずにすむわけがない。何よりこれは、ピアノの音のように左手を添えるような小細工は必要としない。一発で、豊かな音が出る。
昔たまたま点けたTVで、ハリウッドの有名俳優がニューヨーク・フィルだかのオーケストラの指揮をするというアメリカの企画番組をやっていて、なるほどこのくらいの大物になれば素人でもこんな夢をかなえることが出来るんだなと、うらやましく眺めた覚えがある。
誰だって、一度でもクラシック音楽に親しんだ者であれば、数十人の演奏家をしたがえて、指揮棒を振るうあのタキシードの後ろ姿に憧れを抱いたことがあるはずだ。
それは画家や小説家にばくぜんと憧れるのと同じく、技術の研究と鍛錬のむこうにある芸術——人を心の底から感動させ、生きる喜びを与えるもの、とわたしは信じる——というものを、もっとも洗練された形で映す姿のように思う。
静まり返った聴衆を背に、括目して一閃、指揮棒を縦に振り降ろす、その瞬間、ミラノのスカラ座とわが中古マンションのリビングいっぱい同時に鳴り響く「シンフォニーの音」。
それは日曜日の午後、ステテコに腹巻、ビール片手にニトリのソファの上、幼い子供たちに囲まれ、ヘッド・フォンしたままこんな具合に一撃でマエストロに到達できるこの愉悦。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲の3番、ベートーベン交響曲各種、むろんすべてサワリだけだが、このへんが癖のように繰り返している曲目。
ついでながら40番と41番は音色自体はたぶん一緒で、ただキーを押してから音が鳴るまでのコンマ数秒の間合いが違う。このへんはCASIO開発部のこだわりを感じる芸の細かさで、わたしはこの差異を、「オケのレベルによって使い分けるコンダクター」のつもりになって、日によって使い分けている。
40番と41番、というのも、たまたまだろうが、二十代の一時期モーツアルトばかり聴いていた男としては、なんとなく因縁めいたものも感じている。

三つ目のシンセサイザーは、やはり数種類内蔵されているが、もっとも登板回数が多いのが69番の、いかにも電子音、といった癖の無いザーという音色である。
このシンセサイザー、もしくはそれ風の音のおおきな特徴は、専門用語でなんというか知らないが、同じ音がループして、ずうっと鳴り続けることである。
苦言の繰り返しになるが、ピアノの音というやつは、キーを叩いてしばらくすると、本物の残響を模して自然に消えるのである。
これもたぶん素人殺しなのであって、こういう構造はいかにも演者の巧拙がはっきりし過ぎる。
そこへいくとシンセサイザーはキーを押さえている限り同じ電子音がえんえん続くので、いくら音を足していっても何だかそれなりに聴こえるのである。
たまたま和音になっていれば当然それっぽいし、どうやら不協和音ぽい配列でキーを押していても、現代音楽家になりきったつもりになって、けっしてあせらずそのまま待てば、やがて何だか大仕事をやり終えたような気分に、きっとなれるのだ。
ここで白状すれば、ドビュッシーの「月の光」は、はい。定番です。
メインのフレーズが1オクターヴにおさまって、かつ白鍵だけでさらえるのでメロディは易しいし、ここに左手の指が届く限りのドとかソとか押さえるだけで、はい。冨田勲風です。
世紀の天才たちの世界に、わたしはこうして彷徨うのです。
ほんとうに、なんて素晴らしいのだろう。
この、ピアノのおもちゃというものは。

首都圏の緊急事態宣言も再発令され、明るい未来を思い描けないような暗闇に、もしあなたがいるのであるならば、今こそ学問を尊敬し、大いに芸術に親しんで欲しいと思う。
いついかなる時代であれ、それを支え発展させ続けた人々は、つねに個人的な絶望の中で、人類の幸福を願っていたのだから。











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