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國分功一郎著『暇と退屈の倫理学(新潮文庫版)』 は、ヒマ人じゃなくてもマジでおススメできるので読んだほうがいい

■ 暇と共にあらんことを

暇を生きる。それは、人生をかけて取組むべきほとんど唯一のテーマである。

暇をつぶす、ではない。暇を生きる、が重要だ。暇を無くしていく事ではなくて、暇を人生の友とし、常に暇と共にある、いつも傍らに暇がいる、そういうことだ。実践は難しい。かくいう、おまえは暇なのか?普段どういう生活をしているんだ?そう問われると、答えに窮する場面もある気がする。しかし、諦めてはいけない。目標とは、届きそうで届かないもの。そういったものが良いのである。

人間は多かれ少なかれ、地位とか賞賛とかに弱い。そういうものと結びつきがちなもののひとつが、いわゆる「努力」みたいなものだ。ハードワークでサクセスする。明確にそういう意識を持っている人は少数派であったとしても、こういうテンプレ的価値観は、ぼくらの意識のあちこちに密かに根を広く、深く張り巡らしている。よく似た立場の人間が自分より少し多く稼いでいるとか、地位が上になったとか、タワマンの何回に住んでいるとか、車はなにに乗っているとか、偉い人と付き合っているとか、そういったことは、いつの間にか人々の心を捕えてしまう。

とはいえ、そういうサクセス的なものには、キリがないという事もぼくらはある程度分かっている。誰もが、そういうレースから降りて、ゆとりをもって暮らしたいと多少は思っている。だが、そうは言いつつも、じゃあ、積極的に仕事の量を減らして、質を下げて、年収を落としていこう、みたいなことを実践するのはなかなか難しいものだ。失うことはコワいものなのである。実際に失ってしまうと、気の持ちよう次第で、案外そうでもなかったりするのだが。

身近な例で行くと、脱サラしてフリーランスになりました、的な人にありがちなことに、売上が下がる事にナゾの恐怖を感じるというものがある。特に、独立して数年みたいなケースだと、間違ったことをやっていなれば普通は商売は右肩上がりになるので、売上が減ったことがない、という状況になりがちである。そういう場合に、仕事が減る事、失う事を恐れるあまり、頑張りすぎる人というのが出てくる。まあ、商売人としては立派と言えば立派な気がするが、長い目で見ると売上高というのは変動するものである。ある程度商売が続いているのであれば、多少減ったところでどうってことはないんだが、経験してみるまでは、なかなかそれを受け入れることは難しいようだ。

なんだかんだ言っても、一般に人はなにかしら向上したがるものである。しかし、いずれは誰もが年を取り、能力が落ち、センスも鈍り、どっちかというと鬱陶しい老害みたいな存在となって社会の外側へとはじかれていく。これは避けられない事だろう。人生は結局は右肩上がりではない。なにより、死ぬとすべてを失う・・・というかそういう存在でなくなるのは間違いない。

いずれは「バイバイ!ハードワーク!」する。そうだとしても、現役世代の多くにとっては、「言うは易し」だ。

■ サクセスしてアーリーリタイアの実際

最近では、FIREなるナゾのムーブメントもある。悠々自適な生活を送る的なサクセスのひとつのテンプレとして別に悪いわけではないだろう。しかし、周囲の金持ちを見る限り、実際に隠居生活を送れる人は少ないように見える。

自分は、基本的に仕事は適当に頼まれたことはするけど、そこそこにしてダラダラ生きたいっす、というように公言しているタイプの人間なのだが、実際、めちゃくちゃ仕事をして大金を手にし、何ならあまり自分が働かなくてもおカネが入ってくるような身分になった人から、「いや、それはスゴイ分かるけど、実際やってみるとやっぱ隠居は難しいよ」との意見をもらうことが多い。

聞くと、現実にサクセスしてしまった人であれば、一度や二度は「もういいかな」と思うタイミングが、やはり来るようだ。だが、実際にそれで遊びを生活の中心に据えるようになると、なにか物足りない。物足りないばかりか、むしろ心の健康を損なう、といったことを言うわけである。にわかには信じがたい部分もあるが、実際問題「すべてを持ってる感じの人」が自ら人生を終えてしまったりする事もあるわけで、世間でFIRE、FIRE言われているほど、人間は単純でないという事はなんとなく想像できることではある。

まあ、「サクセス後リタイア」タイプの人は、そもそも若くして相当なサクセスをキメている時点で、仕事大好き人間であるのはほぼほぼ間違いないし、そういう人から生きがいを奪ってはいけない、みたいな見方もできないではない。元々、あんまり働く気がないタイプがリタイアしてもどうってことはない可能性はある。そういう人たちは、得てしてそんなに稼がないので、現実にリタイアするのが相当後半になるのだが…

ともかく、多くの人が言うのはこういう旨のことだ。

「理想のように語られるが、現実には、退屈に耐えられない」

もちろん、退屈だけが成功者にとってつらい事なんだと言うつもりはない。ただ、少なくとも「退屈」をうまく処理できない限り、悠々自適みたいな生活を送るのは、実際には難しいらしい、という事は言えるだろう。

そんなこともあって、どうすれば、「テンプレハードワーク&メイクマネー」みたいなものに逃げずに、ヒマ、退屈といったものと付き合っていけるのだろうか。そういうことを常日頃考えているわけだ。

■ 『暇と退屈の倫理学(新潮文庫)』

暇や退屈とうまく付き合うために、我々はまずそれを知らなければならない。そいつらは、時としてあこがれの対象になるが、実際には幸福な人生の敵かも知れないのだ。特に、長年「ヒマ」を愛し、「ヒマ人」と呼ばれることで陳腐な虚栄心をくすぐられてきた自分のような人間にとっては、世界を打ち砕きかねない危険をはらんだ極めて重要な問題だ。

そんな我々にうってつけの素晴らしい書物がある。

それが、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学(新潮文庫)』だ。

本書は、2011年10月に初版が発行され、2015年に増補版が出て、そしてこの度、2022年1月に文庫版が出た。それぐらい、意外なテーマだが案外「読まれている」本だと言うことがわかる。なんでも教科書にも載ったりしたようだ。一見すると「暇人」しか読まなさそうなタイトルだが…

とにかく、ヒマ愛好家として、そのような論考があることを知らなかったとは不覚である。ジャンルとしては哲学書になるようだが、こむずかしい議論は控えめでとても読みやすい。「暇」や「退屈」などという、身近なテーマを深く考えてみることの入門書としても優れているように思う。

本書は、暇と退屈を巡る、過去の偉大なる先人たちの思考を参照しながら、著者なりの答えを提示するという構成になっている。まず、ヒマについて考える上で重要な、過去の議論がコンパクトに凝縮されているという点がありがたい。

最初に提示されるポイントは、「人間は退屈に耐えられない」という事だ。やはり、これは昔から認識されてきた事のようだ。では、退屈というぼんやりとした不幸に対抗するためには、なんらかの「事件」めいたものや、共同体の大義のような、そういう自分の外からやってくるものに頼るしかないのだろうか。それは、「退屈」では確かにないかもしれないが、その先に幸福はあるのだろうか。

第二章での退屈の起源を巡る興味深い考察の後、第三章において、遅ればせながら、「暇」と「退屈」が明確に区別される。しばしば混同されがちなこれらの概念が整理され、退屈は必ず暇とセットなのか、それぞれが別個に生じうるとしたら、といった事が検討される。そう、これはともすれば見過ごされがちなポイントだ。ヒマは隣人であるが、退屈は人類の敵である。確かに自分はそう考えている。これらは、関係は深いかも知れないが、明確に区別すべきものなのだ。

第四章では、消費と退屈、つまり娯楽やモノが豊かに存在すると思われる現代においても、依然として存在し続ける退屈のナゾが検討される。そこで示されるのは、消費には限界が無く、人は消費によって満足しない、という事だ。そういった消費社会のナゾの満たされなさ、「暇なき退屈」を、デヴィッド・フィンチャー『ファイト・クラブ』を参照しつつ描き出す。

第五章では偉大なるハイデガーの退屈論を検討する。そう「退屈とはなにか」というまさに哲学らしい問いかけだ。ここで語られるのは、「なんとなく退屈だ」という、ふとした瞬間に心の奥底から立ち上がり聞こえてくるような本当に恐ろしい退屈の存在である。人類には、退屈から逃避することしか残されていないのだろうか。

続く、第六章は、ハイデガーの議論を受けて、意外なポイントが論じられる。つまり、動物は退屈するのだろうか?という話だ。直感的には、なんとなく退屈する動物もいそうだ。ただ、程度の差はありそうである。そして、そういった動物たちと人間とで大きく異なる点はなんなのだろうか。

暇と退屈から始まったこの議論は、ついに生物にとっての「世界」の話へと広がる。いい。すごくいいぞ!そして、人間にとっての「世界」の在り方が「退屈」を生み出す原因になっているという。なんのことかサッパリわからないと思うが、非常に魅力的な議論なので、是非読んでみてもらいたい。

そして第七章において、ハイデガーの問題点を指摘しながら、「暇と退屈」を巡る長い論考は結末に向かう。結論の章において、人間が「退屈」と付き合い、人間っぽい感じで生きるにはどうすればよいか。とてもシンプルな結論が示される。

ここで重要なのは、この結論に至るまでに読者が旅してきた道程そのものである。道すがら学んできた、「暇と退屈」の正体やメカニズム、それを知っていれば、自分なりの「退屈」との付き合い方というものが見えてくるだろう。そう、「正解が知りたい」、「書物が示す通り実践しよう」、それでは「テンプレサクセス人間」となにも変わらない。(もっともビジネス書に書いてあることをそのまま実行できる人間はほぼいないようだが)「暇と退屈」に向き合う最良の方法は、自ら「暇と退屈」に向き合い思考することの中から見出されるのだ。

そして、ここからの「付録」がまた素晴らしいところである。これまでの議論でナゾのままとなっていた重要な問題がある。「なぜ退屈と名付けられている不快な現象がそもそも存在するのか」という根本的な問い、つまり「暇と退屈の存在論」である。増補版で追加された「付録」では、この「暇と退屈の存在論」に向けた仮説が示される。これが面白い。

昨今の「痛み」の研究において、「原因無き痛み」のメカニズムが解明されつつある。それは記憶と関係しているというのだ。「退屈」と呼ばれる不快感が生じるメカニズムがこれと同じだとしたら?

この話はとても興味深い。既にサクセスしてしまった人が、耐えきれない、時には生を手放すほどの苦しみを感じる事にも繋がるような話だ。「暇と退屈」を巡る旅、その旅は、人間の精神へと向かう。

精神医学や脳神経科学で得られた新たな知見を取り入れたその先に、哲学は新しい人間の姿を描き出すかもしれない。「暇と退屈」そんな身近なテーマから、このような「人間に迫る」考察が導き出されるとは驚くばかりだ。本書の力により、こういった面白さを味わえるような「ヒマ人」が沢山生まれればいいなと思う。


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