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コンビニのスーパー店員みたいな価値のよくわからないものが進歩の陰でうっすらと消えていくのを忍ぶ

■ コンビニのライトニングさん

家を出て最寄りの駅まで向かう途中、長い坂を降りた先に、いつものコンビニがある。仕事場に着くまでにコンビニはいくらでもあるけど、そこに足を運び続けるのには理由がある。

自分はコンビニのレジに若干うるさい。と言っても、とくに文句をつけるとかではない。気になるのは、その人がなにかのこだわりを持ってレジに立っているように感じられるかどうかだ。

  • 必ず、接客はイケボで行う兄ちゃん。

  • もの凄くカッコよくお札をピンッと数えるおばさん。

  • こちらが財布に釣り銭を入れる手順をおぼえていて、順番を変えて渡してくれるお姉さん。

  • どんな組み合わせでも必ずジャストサイズにサッキング(袋詰め)をキメてくるお兄さん。

色んなタイプの店員がいる。いや、より感覚値に素直に言うと、昔はそういう店員がわりといた。しかし、最近ではこれといって記憶に残る店員に出会うことも少なくなったように感じる。

そんな中、自分が愛用する駅近くのコンビニには、昨今稀に見る、いや今まで見てきた中でも、並外れて素晴らしい店員がいるのだ。

その一見する限り若そうな女性は、とにかくすべての動作が尋常じゃなく素早い。商品のスキャン、袋詰め、釣り銭のピックアップ、すべてに無駄が無く圧倒的なスピードでパフォーマンスされる。それでいて、ひとつひとつの手順は要点がパーフェクトに守られている。手足は100%コントロール下にあり、乱暴さは一切ない。もちろん、顧客に失礼などありようもない。

ただ、周りとあまりにもレベルが違う。というか、他の店にもそんなに高速で動作する店員はまずいないので、仕事はパーフェクトないっぽうで、強烈な非日常感が醸しだされている。まるで、そこだけ、5倍速でファスト視聴した映画のように、コンビニエンスストアの一角に、違った理で時が流れるナゾめいた領域が展開されるのだ。

その光速の異空間を堪能するために、つい、また店に足を運んでしまう。新たな客が商品を差し出すまでのわずかな間。スタートの号砲を待つアスリートのように、その人は一切の無駄なく、微動だにせず、しかし細部まで周到に練り上げられたスタンバイの姿勢で、レジに立っている。派手さのないヴィジュアル。表情からはなにも読み取れない。そこにあるのは「無」とも感じられる深い集中だ。

商品を受け取った瞬間、それは始まる。ひびくピストルの音、火薬のにおい。そして何も傷つけない暴風のように、稲妻のように、「それは」起こり。また何事も無かったように「無」に戻る。すべてのコインは瞬時にトレイに収納され、ドロワーは音もなく閉じられ、ハンディは所定の場所に戻される。何一つスタート前と変わらない。客など来なかったかのように。

その一連の所作に感じられる、あくなき鍛錬と探求へのリスペクトと共に、自然と(心の中で)彼女をこう呼ぶようになった。

「ライトニングさん」と。

ぼくは、この何気ないコンビニレジで繰り広げられる、「瞬間のエンタテインメント」がささやかな楽しみ「だった」。

そう、先日、ついにその店にもセルフレジが導入されてしまったのだ。

「ライトニングさん」はセルフレジであろうが、当然一切手を抜かない。いつものように瞬きするあいだに商品をスキャンし、客に所定のタッチパネル操作を行うよう、完璧なしぐさで促して見せる。しかし、支払の操作をするのは不慣れな客であり、もはや彼女の並外れた技量をもってしても、レジを素早く(それも尋常じゃなく)処理することはかなわない。客のターンを待つ間の「無」が、気のせいか「虚無」へ近づいた。そんな風にも見えた。

■ 失われる無形産業民俗文化財のようなもの

昭和育ちなら、過去にも同じような事があったことを思い出すだろう。かつて、スーパーのレジが、バーコードをスキャンするのではなく、全てキー入力で行われていた時代があった。今でも、小さな商店では用いられている例があるが、スーパーマーケットは商品点数も多く、かつ日々価格が変動するため、複雑さのレベルが違った。

そんな時代には、どこのスーパーにも、すべての商品の値段を瞬時に見抜き、とてつもないスピードでレジ入力を行う熟練のレジ担当者がいた。いわゆるスーパーのおばさんである。買い物客には、どの担当者のレジが速いかを見抜き、列の長さではなくトータルのレジ脱出タイムで並ぶべき列を変える、というスキルが必要だった。

時代が進み、スーパーのレジがスキャンタイプに置き換わるにつれて、店員は商品の値段をおぼえる必要は無くなり、ほとんど訓練せずともすぐに労働力を現場に投入することが可能となった。これにより、経営は合理化されただろうし、求職者にとっても、特別な訓練を経ずして職にありつけることに良い面はあっただろう。その一方で、かつてのとんでもない熟練店員のような人は次第に店頭から姿を消していった。

まあ、確かに速けりゃ良いというものでもない。音楽でも、速く正確に弾ける事と、人々に素晴らしい体験を提供する事とは異なることだ。しかし、確実に言えることは、速く正確な動作は、技術と正しい知識、そしてなにより明確な目的意識と鍛錬なしには到達できない何らかの高みを表しているという事だ。レジ打ちのようなエリアは、伝統的な体系化された知識があったわけではないので、ごく限られた意欲と才能のある人間の現場での創意工夫により、パフォーマンスの限界が追求されてきたフロンティアであったはずだ。

音楽やパフォーミングアーツ、はたまた工芸などの分野においては、そういったPROの卓越した技というものが、正当にリスペクトされ、時代を超えて残すべき無形の文化的所産として、少なくとも記録するなどの方法で保護しようという動きが見られる。

しかし、レジ打ちのような無形産業民俗文化財とでも言うべき類のものは、現在のところそういった保護の対象にはなっていない。我々が覚えているしかないのだ。つまり、そういった芸術的価値の認められない技芸は人々の記憶と共に消滅する運命にある。

昨今、コンビニのレジ周りは大きく変わった。まずは、レジ袋自動配布の終了。そして、レジのセルフ化だ。こういった、一連の合理化、省力化のようなものにより、今まさに膨大な技芸が失われようとしている。製造現場はもちろんとして、オフィスでも、少し思い返してみれば、かつては紙ベースで手作業で作成されていたような資料が、次第に電子化されていくことにより、多くの技が失われて来た事に気づくだろう。

もちろん、クールに言えば、コンビニのレジ作業みたいなものに付加価値を認める人は少ない。ただ、よく考えてみると、伝統工芸品は多くのプラスティック製品より機能もコストも劣るし、職人の技のようなものが、どこまで精密機械と争えるかも今後はかなりあやしい。実用的な価値みたいなことで言うと、大きい視点では、是非とも後世に残さねばならないというものではないだろう。

しかし、そういったかつて産業だったものは、すべてが工業化・機械化されることなく、一部が細々と存続し、次第に希少価値をマーケットで認められるようになり、生き残ってきた。アートなどといった新しい意味とリスペクトを付与されながら。

コンビニの熟練店員のようなものには、形に残るモノがない。作品や製品が残る美術や工芸のような文化と異なり、痕跡がなにも残らない。演劇や舞踏のように、元々芸術として一定の地位を確立されたものでもないので記録も(あまり)残されない。特に、大手チェーンストアのような現代的な産業組織においては、合理化や効率化が優先的な課題であり、滅びゆく技術の伝承のようなものは、それが何らかの付加価値を生むのでもない限り、一切顧みられないことであろう。

くだらないことをと思うかもしれないが、そういったものを、マーケットが見向きもしないからといって、失われるままに任せておいて良いのだろうか。なんとなく、気になるのだ。世の中には、明確な価値が認められていない、スゴさが言葉にもなっていない、そういったスキルが沢山あるように思う。そういったものに目を向けてみれば、もしかしたら新しい発見があるかも知れない。

■ 今なお追求されるチェッカーの技術

かつてのキー入力型のレジの技術はほとんど失われてしまったように思われるが(いうほど電卓と変わらないという説はある)、今なおスーパー等で主力であるスキャンタイプのレジについては、その技術を形式知とし、適切なトレーニングを行うことでレジ効率を向上させる、というサービスがビジネス化されている。さすが、インターネット時代である。そのノウハウの一部については、動画コンテンツで学ぶことが出来る。

<レジの立ち方等の基礎>

<順手、逆手といった手の使い方>

レジ登録を行う際の、かごの配置、スタンス等の基礎から始まり、スキャンを行う際の手の使い方、かごへの商品の積み方など、いかに疲労を防止しつつ、かつサービスクオリティ高く効率的にレジ登録を行うか、様々なノウハウがある。

ちなみに、レジ四天王最強のキングマスクの登録スピードは異常なので、レジスキャンバトルは必見である。

今後、セルフレジが主流となっていった場合、このサービスも需要が減っていくのかもしれない。(むしろ、学ぶべきは我々のほうだ)しかし、かつてこのようなタイプのレジが存在し、そこには追求すべき技術があり、キングマスクのような達人がいた。その記録がこういった動画のような形であっても、残るようになり、容易に参照することができるようになった。テクノロジーによって滅びの運命を約束された技術が、テクノロジーによって記録に残され、未来に需要があるのかどうかもわからないままにネット空間にアーカイブとして堆積していく。

忘れられる権利、みたいなことを言われる世の中になった。失われないことが必ずしも望ましい事なのかどうかはわからない。ただ、自分が素晴らしいと思ったものは、その気になりさえすれば、自分の力で未来に残していく事ができるようになった。その後の可能性については、まだまだこれからの話だろう。

ちなみに、日本では電線や電柱が未だにはびこっているが、諸外国との比較や景観上の問題から、徐々に無電柱化を目指そうという方向性が見られる。今、自分たちが当たり前に見ている風景も、そのうちなくなってしまうかもしれない。そう思って、自分は、最近、電線の写真をせっせと撮りだめてたりする。


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