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映画「ケイン号の叛乱」_ 仕事ができない上司の悲哀、罪を着せられる部下の悲憤。

いつ、どの時代でも、上司と部下の軋轢は絶えることがない。
まして、上下関係が絶対な軍隊という組織では、なおさら問題だ。

本作は、ピューリッツァー賞を受賞したハーマン・ウォークの世界的ベストセラー小説(1951年発表)を1954年に映画化したものだ。
ハーマンは先見の明があった:仕事のできない上司が生み出す理不尽を描く。

マリク大尉が副官を務める駆逐艦ケイン号に新しい艦長クィーグ中佐が着任した。彼のきびきびとした態度に当初は乗組員全員が好感を持つ。しかし、自らのミスを部下に押し付ける事件が発生。その後も艦長は異常な行動を繰り返し、次第に乗組員の信頼を失っていった。そんなとき、ケイン号は猛烈な台風に遭遇。恐怖で正気を失った艦長を制し、マリク大尉が艦を指揮して危機を脱する。だが、帰港したマリクら乗組員を待っていたのは、反逆罪の容疑での軍法会議だった・・・。
スタッフ
監督:エドワード・ドミトリク
製作:スタンリー・クレイマー
原作:ハーマン・ウォーク
脚本:スタンリー・ロバーツ
キャスト
クィーグ:ハンフリー・ボガート
バーニー:ホセ・ファーラー
マリク:バン・ジョンソン
キーファー:フレッド・マクマレイ

ソニー・ピクチャーズ公式サイトより

「できない上司を持つと苦労する…」。

この映画の艦長役は、ハンフリー・ボガート以外には務まらなかっただろう。
山中に金鉱を掘り当てたのは良かった。だが、意地汚さゆえ、仲間が金を盗むのではないか?と疑い、「やられる前にやれ」とばかり金をぜんぶひとり占めして一目散に山を降りる、その矢先で山賊に殺される放浪者、「黄金」のダブズ。
いっけん優男の脚本家、だがいったん自分の立場が窮地に立つや、暴力的で強圧的な本性を恋人に振りかざす、崩れていく「孤独な場所で」のディクソン。
チャンピオン を八百長で生み出そうとする黒幕に運命を左右されるボクサー、「殴られる男」のエディ。(これがボガートの遺作)
サム・スペードやリック・ブレインといった「ハードボイルド」な正統派の「男らしい男」を演じ続けてきたからこそ、男らしさや権威が失墜し、壊れていく男を演じてもリアリティがあった。

本作で彼が演じるのは、部下にとって「どこか」信頼できない上司:クィーグ中佐だ。歴戦の勇者も老いた。記憶があやふやになりやすくなり、先入観でものごとを決めつけたがるようになった。
それが、副官であるマリク大尉と頻発する対立の種となる。部下の下士官・水兵たちに、話の通じない偏執者、ビョーキ、と嗤われる原因となる。挙句「艦長がダメだが大尉は良い」とまで、公然と囁やかれるようになる。
本人もそれは自覚している:自覚しているが、周囲に打ち明けようとはしない。語ればそれが弱みになると思ってるし、今の立場を失いかねないと恐れているからだ。
経歴から来る高すぎる自尊心、経歴から見て値しない能力の不足の結果が、ディスコミュニケーション。「仕事のできない中間管理職」の悲哀がある。

「人事が悪い」と言うのは容易い。
だが、いちど沖に出てしまっては、トップを替えることなど、叶うはずもない。
よりにもよって、無能な上司がいるときに限って、危機が生じる。
大尉が中佐の替わりに最終判断を下したのは、やむを得ない理由だった。

しかし、職掌を越える。序列を超える。それは軍隊においては大罪。
陸に帰った大尉を待っていたのは、軍法会議だった。

裁判には勝って、勝負には負けた。

この映画の後半は、
マリク大尉に非があるのか?クィーグ中佐に問題があるのか?
二人の人間を裁く軍法会議が舞台となる。
長いものに巻かれろ。検察官、鑑定医、さらにはマリク大尉をあれだけ慕っていた部下たちまで、みんなクィーグ中佐サイドに立つ。
何より厄介なことに:中佐自身「自分に判断能力がある/あった」と言い張る。

海の上での経験値だけを理由に、中佐の意見だけが正しくみなされる、圧倒的マリク大尉に不利な法廷。このままでは彼を待つのは、反逆罪で縛り首。ただ一人、グリーンウォルド大尉(演:ホセ・フェラー)が彼の弁護を引き受ける、ふたりだけの孤独な戦いが、始まる。


結局、グリーンウォルド大尉の戦略は
「それでも彼は、アメリカが最も苦しい時に戦い抜いた人間なのだ。」と
クィーグ中佐の肩を持ち、マリク大尉に非がある、しかし罪まで負わせることはないだろう、という譲歩のやり方。
これにはクィーグ中佐も、検察側も、溜飲を下げる。無罪で終わる。

「勝利はした、しかし自分が正しいとは認められなかった」
と、もにょるマリク大尉。
大尉の視点から見れば、正義は大尉、悪は中佐だ。

だが、もやもやしていたのは、果たして大尉だけだったのだろうか?




全ての元凶:上司と部下のディスコミュニケーション。

あらすじを追っても分かるが
前半は海の上で「自分以外全てが敵になる」クィーグ中佐の孤独
後半は陸の上で「自分以外全てが敵になる」マリク大尉の孤絶

が描かれる。

ここに、監督を務めたエドワード・ドミトリクの心境がある。
彼は、第二次世界大戦後アメリカに吹き荒れた赤狩りの中で「ハリウッド・テン」として槍玉に挙げられて、有罪が確定、収監され、転向を強いられた。
そして、ダルトン・トランボがそうであった様に、誰も話を聞いてくれない、誰も守ってくれない、孤独な戦いを、長期にわたる裁判のなかで強いられた。

その心の傷を、彼は、クィーグ中佐に、マリク大尉に、刻印する。
自分の頭の中を得体のしれない何かが蠢いて、それが分かってもらえない孤独と
冷静をつとめて理に叶った事由を述べても、誰も話を聞いてくれない孤絶とを。

それは、現代においては
自分の言うことを聴いてくれない部下を持った上司の孤独 と
自分の言うことを取り合ってくれない上司を持った部下の孤絶 という
普遍性を持って、観るもののこころを激しく揺さぶってくる。


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