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異様な時代劇映画「血槍富士」。 最後に流れる「水漬くしかばね」誰のため。

閉塞感に満ちたこの世界から抜け出したいという願望。 今や誰しも抱えているエモーション。
もっとも、抜け出した先が泥沼、の可能性もあるけれど。


映画監督・内田吐夢(1898年- 1970年)も、ドツボにハマったひとりだった。

昭和十年代すでに大監督として「人生劇場」「土」「限りなき前身」等を世に出した内田吐夢は、もはや内地での映画製作は絶望的となった昭和二十年四月、「満映」で仕事すべく渡満して、敗戦にぶつかり、満映理事長甘粕正彦の自殺にまで立ち会う羽目になった。

「人間臨終図鑑」七十二歳で死んだ人々 山田風太郎・著 より引用

そして彼は、日本敗戦後も帰国出来ず、共産主義革命が進行する中国に残留することとなる。9年間も。

とにかく彼は、敗戦前は「日本精神」の権化のごときことを口にしたが、昭和二十八年やっと帰国したときは、中国の工人帽をかぶり毛沢東思想の信奉者のごとき言動があった。彼が帰国第一作「血槍富士」を作ることができたのは、二年後の昭和三十年になってからであった。

「人間臨終図鑑」七十二歳で死んだ人々 山田風太郎・著 より引用

メガホンを取るのは1942年以来。つまり、13年のブランクを経た監督作品。
中身は、江戸時代を舞台にした時代劇。ロードムービーというのは(弥次喜多道中、次郎長三國志など)そこまで珍しいものではない。
珍しいのは、槍持ちという、主人たる武士に従う奉公人を、主役に据えたことだ。ここに(そしてラストに)監督の描きたかったものが、現れる。

晴か嵐か、霊峰に轟け千恵蔵の雄叫び!東海道は涙旅、富士は夕焼け仇討ち日和、血槍権八どこへ行く!!戦後、映画界から姿を消していた巨匠・内田吐夢監督が13年ぶりにメガホンをとった話題作。まさに復帰作に相応しく、片岡千恵蔵を主演に迎え、内田吐夢の盟友・溝口健二・小津安二郎・清水宏・伊藤大輔ら錚々たる面々が企画協力に名を連ねた異色時代劇。のどかな東海道を江戸に向かって旅する、若様・酒匂小十郎と槍持ち権八、お供の源太。まだ若い小十郎は気立ての優しい人物だが、無類の酒好きで酒乱の気がある。源太もまた酒飲みなので、権八は心配でならない。そんな三人の主従と時を同じくして旅するのは、小間物商人、身売りされる娘おたねと老爺、あんまの薮の市、旅芸人のおすみ母子、挙動不審の藤三郎、そして権八の槍に憧れる次郎ら市井の人々。悲喜交々の人生と人情に触れた小十郎は感動し、虚栄ばかりの武士の世界に嫌気がさしていく。そんな折、事件は起きた。飲み屋で酒を酌み交わしていた小十郎と源太が、侍集団との争いで惨殺。そこへ駆けつけた権八は、若様の仇を討つべく酔いどれ侍たちに斬りかかる!井上金太郎監督の「道中悲記」をもとに、一人の武士が封建的な世相に矛盾を感じながら、真実に目覚めていく姿を、東海道中に繰り広げられる群像劇の中に描いた秀作。(昭和30年 東映京都作品)
CAST
片岡千恵蔵、喜多川千鶴、田代百合子、加賀邦男、島田照夫、杉狂児、植木千恵、植木基晴、加東大輔、渡辺篤、進藤英太郎、月形龍之介
STAFF
製作:大川博/企画:マキノ光雄、玉木潤一郎/原作:井上金太郎(遺稿「道中悲記」より)/脚色:八尋不二、民門敏雄/脚本:三村伸太郎/撮影:吉田貞次/音楽:小杉太一郎/監督:内田吐夢

東映ビデオ 公式サイトから引用

礼儀作法をよく守る奴が、人殺し。 重い。


自分より一回り年の小さい若様:酒匂小十郎(演:島田照夫)に仕える槍持ち権八(演:片岡千恵蔵)。現代でも「年下の上司、年上の部下」というものは珍しくはないが、封建社会においてはそれが当然のことだった。
この男、いつも物腰は低く、折り目正しい仕草で、無類の酒好きという欠点持ちの若様に従いつつも、彼をリードする。堅物だ。とはいえ、権八も、きまりごとだらけの本国では味わえない、自由な気分を、主人と共に満喫する。

物語の大半は、のどかな道中風景、軽くて巧みなロードムービーで構成される。やたら体面に拘る武士階級と、きまりに囚われず浮き沈みする人生の苦楽を楽しむ庶民階級の、対比とともに。
その中で、度々クローズアップされるのが、主人の酒好き。わかっちゃいるけどやめられない、その繰り返し。この繰り返しが最後どうつながるか。治らないのが仇になる予感がする。悲劇の予感が近づいていく。

はたして、決定的な悲劇が起きる。若様と権八の同僚が、立ち寄った酒場で当地の若侍たちのちょっかいを受けた挙句が、無残に殺されてしまうのだ。
ここにきて、道化の化粧は、激情に崩れる。
権八が復讐とも悲嘆とも見分けがつかぬ「激烈な感情」に突き動かされて、槍を振り回し、酒樽を突き、流れる酒と泥にまみれながら大立回りを演じだしたとたん、物語は叙事詩的風格を帯びる。武術の心得はないが、必死で立ち向かっていく、小さな英雄の叫びといったものを感じさせて、悲壮さ限りない。

しかしよくよく考えてみると、「自由であるはずの旅先で、主人のための敵討ち」。封建制が、どこまでも生き方を縛ってくる構図なのである。


そして 問題の「海行かば」。


最後、若様と同僚の骨箱を首に下げて、権八は宿場を後にする。
封建制の世、権八が「はじめて」自分の意思で行なった英雄的行為は、ただの「忠義」として意味付けられ回収される。
だから、これを周囲が讃えるのに、権八はむすっとした顔で返す。
あれだけ自分を慕ってくれた坊やすら、「おじさんのようなカッコいい侍になりたい!」と聞いた途端に、あしらい、彼は身独りで街道の向こうへ消えていく。何か見えざる身辺の反対力に必死に反抗するかのように。

このとき伴奏に流れるのが、時代劇には不相応な「海行かば」だ。
言うまでもなくそれは、戦時中広く愛された、<祖国>のために死んだ人々を悼む歌。英霊たちの魂を鎮める歌。節は美しい。しかし、誰のための「海行かば」なのか。 キーワードは「戦後10年」。


この映画が伝えたいことが、「封建制の批判」と単純化すれば
明治新政府以後も脈々と社会の中に息づいてきた封建制:一言で言えば「上からの命令は絶対だ」の精神、のために、異議申し立てることなく玉砕を選んだ大凡すべての日本国民 に対する鎮魂歌として、捧げられていると考えられる。


あるいは、こんな考え方もできる:歌は、「どこまで行っても日本人であることを捨てられない」権八=日本人の魂を鎮めるために、歌われている。
権八は故国へ戻っていく。従うべき主人を失いながらも。主人を殺された、という臣下として恥ずべき行いに、周囲にあれやこれや言われることを覚悟してでも。彼は(あれだけ道中の中で民草に憧れて尚!)武士である自分を、捨てることができない。否定することができない。哀しみに打ちひしがれながらも、それでも武士の一員である誇りにすがる心がある。
それは、間際の絶叫の中で、国を呪いつつ、なお自国を最後まで愛し続けた「死んだ」日本人のように。そして、戦争を悔い改めきることなく存続する日本に帰らざるを得なかった「生き残った」日本人のように。

それは敗戦後も「なぜか」9年間中国に留まり続けた監督・内田吐夢の生き様と重なる。

だから歌うのだ、自分と故国を、愛憎のこころでつなぐ「海行かば」を。
しかし、皆で一様に歌うのではなく、(くぐもった音で)ひとりごちることで、「忠義か不忠か」自分の中に相矛盾する気分を、どちらか片一方の面でしか見ようとしない周囲を、拒絶する。ちょうど、権八がくるりと向けた背中のように。


ラスト・シーンは歌がぼんやり消えていく中に終わる。
「かえりみはせじ」何者にも意味付けることができない、何者にも回収することができない、ひとりの人間の空っぽになった身体を残して、映画は静かに終わる。戦争を忘れようとする日本、戦争を忘れられない日本、それはちょうど戦後十年、母なる日本の行く手を問う監督にとっての、悔恨と再起の歌の中に、終わる。「どこまで行っても日本人である因果を捨てられない」哀しさを描いて、映画は終わる。


本作以後も内田吐夢は男っぽい骨太な映画を連打することとなる。
そこには、
「大菩薩峠」の宇津木兵馬から逃れに逃れる机龍之介といい、
「宮本武蔵」の幼君を殺したために僧門から糾弾される武蔵といい
「飢餓海峡」の優しいおんな・八重の善意に追い詰められる樽見京一郎といい
因果に追われる、罪を背負った男たちの影が見え隠れするのである。


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