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その人

 二車線ある幅広い道路の信号のないところを渡りきって、住宅街のシャレた喫茶店がもうすぐ見えてくるあたりだった。
 めずらしく顔をまっすぐに上げて歩いていると、その人はグングン近づいてきて、そのまますれ違っていった。

 眼は切れ長だった。
視線は確かで、その人の心を遮るものはないかのようだった。
 鼻筋はまっすぐに通っていた。高くもなく低くもなく、それでも、まっすぐに通っていた。
 口もとはしっかりと結ばれていた。
 髪型はボブで、大人しめの栗色だった。
 おそらく、素顔ではなかっただろうか。
 浅黄色のショートコートと裾の広めのパンツだった。
 
 その人は腕を組んでいた。
 大きなストライドで歩いていた。
 
 ひとり暮らしなのだろうか。家庭を持っているのだろうか。
 どんな仕事をしているのだろうか。
 
 その人はなにを夢見て、今日があるのだろうか。
 これまでにどんな生きにくさを感じてきたのだろうか。
 いま、どんな生きにくさを感じているのだろうか。
 
 意志の塊が近づいてくるようだった。
 幾度かの躓きをこえて、屈折を生きる力に練り直した人だけが手にできる強さを持っている人なのではないだろうか。
屈折を忘れ去るのではなく、毎日の暮らしと仕事とそこに関わる一人ひとりとの結びつきの土台としながら…。

 ぼくが男性だという根本的な条件もあってか、まちへ出て人間ウオッチングをしていると、「この人と話してみたい」と直感するのは八割方が女性にかわってきたような気がする。
 ヘルパー制度がなかったころ、まちを歩いていて、電車に乗っていて、ボランティアの誘いをしたくなるような若者がいないか、あたりを見まわしたものだった。行きずりに異性に声はかけなかったけれど。
 
 あのころ、性別の差はなかったような気がする。
 いま、若い男の人たちの話を訊くと、まず自分の暮らしを安定させることを考える割合が高くなっている印象をもってしまう。
 
 話は飛躍的に内容を変えるけれど、夢のあり方に疑問を投げかけたくなるときがある。
 たとえば、プロ野球選手などの個人のブランドの指標として、年俸などのお金に関することが取り上げられる。
 三億に乗せられたらプロ野球のスター選手だとか、シーズンオフになるとそんな話題が耳にはいってくるし、そこにマスコミは番組の時間をとり、新聞はスペースを割く。
 
 ぼくの友だちの息子さんは少年野球をはじめたころ、テレビを観ながらいつも話していた。
「おかあさん、あのピッチャーのフォームってカッコいいよな。ぼくも一六〇キロのストレートを投げられるようになりたいな」
 笑って話してくれた。
 「うちの息子、ちょっと変わってるわ。どこのチームが好きとか、どの選手のファンだとか言わへんねん。一六〇キロがどうしたら出せるかとか、Aくんがどうしたらボールを遠くまで飛ばせるか、そんなことに興味があるらしいわ」
 知りあいの息子さんはストイックな性格だとしても、「ぼくはソフトバンクの千賀みたいになりたい」とか、「広島カープの鈴木誠也みたいになりたい」と夢を描くとき、活躍のシーンは思い浮かべても、年俸云々はほとんど関係ないのではないだろうか。
 世の中がそちらへなびかせているような気がしてならない。

 「ぼくはこうありたい」は、千差万別であってほしい。
 家族の経済状態のしんどさがあったり、出逢った人によって価値観が変わったり、その人の背景はそれぞれの色と質感を持っている。
 
 まちですれ違う中高生の男の子たちの顔が同じように見える。
 二十代前後の人たちも、それほど変わらない。
 
 ネット社会がどうとか、説教臭いことを書きかけて、突然に気分がひっくり返った。
 
 昨日、商店街で無表情な歩きスマホの若者とぶつかりかけた。
 うまくよけられたけれど、相当なニアミスでも彼は気づかずに、そのまま画面から目を離さないままで通り過ぎていった。
 「昭和」のころの空気が大好きなSくんは、耳にタコができるほどぼくに言う。
 「小学校低学年からスマホを持たせるのはやめてほしいですねぇ」と。
 ぼくは応える。
 「どんなテーマでも、一律に決めてしまうことには抵抗があるんやなぁ、ぼくは…」
 性善説で通したいぼくにとっては矛盾だけれど、非日常の状況になったとき、スマホの存在はセーフティーネットの役割を果たすはずだ。
 一人ひとりが、本人も、家族も問題意識をいつも心のどこかに携えて、それぞれのやり方をリセットしていく時期なのではないだろうか。
 
 今日、書き進めたかった内容に関連しているとはいえ、ずいぶんスマホで寄り道をしてしまった。

 
 ぼくは思う。ほんとうに思う。
 
 女性が強い方がいい。
 主導権を持てた方がいい。
 特に家庭では。
 
 個人によって、体力差はある。
 それでも、男性の方が体力に勝ることが多い。
 殴られたら、蹴られたら、そんな状況をバックボーンにして「圧」をかけられたら、家族を守ろうとすれば逃げ場はなくなってしまう。
 制度でフォローするにしても、個々に限界はあるだろう。
 だから、地域で、職場で、女性の地位向上の動きは加速させなければならないだろうか。
 単純すぎる理由だろうか。

 ただ、一つだけ気になることがある。
 すべての女性が行動力をそなえて、物おじせずに発言できるようになるべきだとは思わない。
 控えめな人がいてもいい。思いが言葉にできない人がいてもいい。
 ご近所さんなのか、親戚なのか、役所の人(行政)たちもふくめて、誰かが「もしも…」を見守れる世の中であれば。「監視」ではなくて。

 セーラー服の女の子たちが「おまえなぁ」なんて会話しているところを当たり前に見かけるようになって、ぼくはそんなことを考えた。

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