うつの大学生の新学期-授業・課題・就活-
こんにちは。もし前回、前々回をお読みくださった方がいらっしゃったら感謝申し上げます。とても嬉しいです。そして、初めて読んでくださっている方、はじめまして。私は適応障害・うつ病を患っている大学院1年生です。もし同じ境遇、環境にいらっしゃる方は孤独を共有し、もし身近に同じような方がいらっしゃったら片鱗でもその方のことを思い、また全くご縁のない方でしたらこんな人もいるんだ、と思っていただいたら嬉しいです。
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卒業式は、3月の最後の週に行われた。そうは言っても今までのように盛大に行われることは無く、学位伝達式だけがそれぞれ研究室ごとに簡単に行われることとなった。構内へは卒業生しか入れなかったが、外には少数の後輩たちが集まっており、嬉しいことにその一人に私は花束をもらった。まだ、私を慕ってくれていた。そのことが本当に嬉しかった。簡単な会話のあと1年ぶりに校舎に入る。他のみんなはやはり最後だからと色とりどりの美しい袴姿、もしくは凛々しいスーツ姿だった。男子生徒も少し洒落たスーツ姿だ。一方私は袴を用意する体力もなく、フォーマルに見える腕も脚も覆い隠した真っ黒なワンピースを着た。卒業したと胸を張れる袴姿にも、これから先の未来を感じさせるスーツも着ることはできなかった。
本当に幸運なことに私の卒業設計は評価されたことでその賞状もあわせて学位記を頂いた。最後に卒業生と教授で写真を撮り、先生と一人一人握手した。私は「本当にありがとうございました」と首を垂れた。手のひらは優しく温かかった。本当はもっとお礼が言いたかったのだが、他に作業のある先生は慌ただしく教室を後にした。
研究室に向かえば、廊下には色とりどりの振り袖が揺れ、いくつも写真を撮る音が聞こえた。私も常に一緒に居てくれた友人たちといくつも写真を撮った。人に恵まれていると心から思う。それからそれぞれ研究室や他の生徒のところへ向かう中、私は疲れて研究室の椅子にぶら下がった。少し教授を待とうかと思ったが、やはりお忙しいようでいらっしゃらない。同じ研究室のメンバーも残っていたが、何となく解散の流れになった。私は一人帰宅の途についた。家に着き、学位記と後輩からもらった花を見て泣いた。楽しかったが成績や評価の頂点を目指すために歯を食いしばり生きた3年間、そしてついに糸が切れ、地獄のような日々を過ごした最後の1年。それが漸く終わった。何とも呆気ないものだなと思った。他の皆は少数で飲みに出かけていたようだが、私は一人ワンピースをすぐさま脱ぎ捨て薬を飲みこみベッドに潜った。
新学期がついに始まった。3月は来る日も来る日も新学期に怯えながら過ごしていた。しかし無情にも時間は進み、4月を迎えている。私はこの世から去ることはなく今も現実を生きている。新生活の始まり、期待と不安が交じり合う、これからの未来に向かって歩き出す…なんて言葉が巷には溢れているが、今の私にとっては始まることが何よりも恐怖で、またあの地獄のように学校に這いつくばる日を思うと叫びだしそうだった。昔の私は勿論、どんな人と出会い、どんな生活が待っているのかワクワクしていた時もあった。それが今はこれだ。昔の私が今の私を見たら絶望するだろうか、蔑むだろうかと時々考える。
大学は完全にオンラインではなくなり、対面とオンラインが入り交じったものに変わった。私にとってはどちらも怖い。すぐにベッドに現実逃避できるという点においてはオンラインの方がお得かもしれないが、どちらにせよ真剣に授業を受け、単位取得を目指して日々勉強を進めなければならない。今の私は、生きるのが精いっぱいだというのに。私は震える手で荷物を整理し、重い足取りで大学に向かった。
ガイダンスの日、私は卒業式ぶりに教室に入った。同じ大学の大学院に進んだため、顔見知りが多かったが外部生もちらほら見かけた。私はそそくさと指定された席に座る。学部1年生以来学籍番号が隣同士だったことで仲の良かった友人と久々に再会し、いくつか言葉を交わした。純粋に彼のことは友人として好きで彼の穏やかな性格も相まって普通に会話を交わすことが出来た。
ガイダンスが始まる。数々の事務的な連絡と色とりどりのチラシと時間割を決めるシラバスが紙袋の中にぎっしりと詰まっていた。その中には入学記念品もあった。綺麗にラッピングされたそれを見て、本当に私はここにいるのが相応しいのだろうかと自分を見下した。
口頭での説明と共にパッとスライドが映る。コロナ以前であればいつもの風景だ。先生が壇上に立っていて、スライドを切り替えながら淡々と説明をしていく。今までは態度は悪いが頬杖をついて聞きながら、必要なことはメモをし、教科書を確認し、終了時刻10分前になればまだかとそわそわし始め、先生が終わりを告げると周囲の生徒とおしゃべりをしながら昼はどうする、次の教室遠くてちょっと面倒、あのレポート何て書いた、なんて他愛のないことを話した。それが今はどうか。授業よりもはるかに簡単なガイダンスの説明を、肩を縮こませ、耳を研ぎ澄まして必死に聞き取りながらスライドを凝視している。しかし簡単な事務手続き、それこそ学部時代にやったことのあるはずの作業なのに、言葉をまとまって聞くことが出来ない。スライドを見ても、文字のぎっしりつまった画面を見るのが辛い。「その紙袋に入っている〇〇の紙を取り出して確認してください」。紙袋を漁る。見当たらない。頭の中は常にパニックなのだ。元々そうなのもあるが、私は以前よりもずっと”探す”という能力が欠如していた。紙束がテーブルに散らばる。一個空いた席に座る生徒はもう紙を手にしながら前を向いていた。私は情けなく感じながら後ろを振り向き、友人に聞いて漸く目当てのものを見つけた。その間にも説明は進んだ。"意味"が分からなかった。ただただ目線を紙束とスライドを行き来しながら数十分は終わった。
やっぱり、私は相変わらず愚かなままだった。私の内情を知る唯一の友人が次は健康診断だね、と明るく言った。始まるまで少し時間があったので時間をつぶすために自分たちの研究室のある棟へと移動した。
私と彼女は研究室が違うため、休憩スペースに座り時間を過ごした。ご飯を食べるには微妙な時間だったため、友人は空腹を訴えながら頬を膨らませた。一方私は全くお腹は空いてなかった。実家から新学期が始まるということで東京に戻ってから、ほとんどまともに食べていない。食べる、という行為も嫌気がさす。とりあえず、母が買ってきたシリアルをざっと大きな器に盛ったり、お味噌汁を流し込んで生きていた。そんな中、友人は小さなビスケットを手渡した。「ありがとう」と受け取る。彼女の好意はとても嬉しく、私はそれを口にした。それは甘くておいしかった。彼女のちょっとした優しさが嬉しかった。
目の前には私の所属する研究室があり、教授は在室していた。今までのお礼が言いたいと思った。学部の卒業設計をするにあたり、うつを発症し錯乱し自分に絶望し、時に失踪もしたが教授は私を見放すことなく個別に対応してくださり、最後までご指導くださった。しかし忙しなくパソコンに向かう背中を見て、申し訳なさが募る。それでも言わなければ、と震える手でノックをした。振り向いた先生に、また先日の通り首を垂れた。先生は私に対して最近のことについて尋ねた。私は今の状況を簡単に伝えた。「また時間を見ながら個別に面談しよう。絶対に無理をしないこと」とおっしゃった。また、これから2年間迷惑をかけるのか。私は自分自身を情けなくも感じながら、お言葉に縋る様に「はい」と答えた。
時間になり、健康診断を受けた。人数が多く、感染対策もあり素早く処理が行われる。
「今まで大きな病気や疾患に罹ったことはありませんか」
すぐにうつのことが頭をよぎった。しかし後ろには次々に人が控えている。スタッフの方にももたついてしまうとイライラさせてしまうかもしれない。私は「ありません」と言った。なし、と書かれた欄が何だか重かった。普通の生徒に交じる資格のある人間なのだろうか。他の検診を待っている間ずっと考えていた。
内科の検診があり、個別に仕切られたブースで私は慌ただしく動く案内役の方に大声で呼ばれて駆け足で入った。担当の先生はおっとりとした女性の先生だった。
「何か、抱えている病気など気になっていることはありませんか」
その優しい声に、背中を押されるように「うつを、患っています」と答えた。彼女は小さく目を瞠った後、”なし”という欄を訂正し、私の精神疾患の名前を横に書いた。
「よく、頑張ってここまで来たね」
傍からみれば何とも幼稚な褒めを受けているのだろう。こんなことで褒められるのは保育園や幼稚園生だろう。しかし、私にとっては重い事柄だった。大学に行く、という行為は恐ろしく絶望するようなことだった。それをただ称えてくださる方がいらっしゃったことに、私は俯いて「はい」と一言答えた。
それからはまた慌ただしく進み、私は基礎疾患を持っているということで保健室に回された。それには例の友人も付き添ってくれた。人気のなくなった校舎は私には歩きやすく、奥の保健室に入った。自分の診断表を見て、過去の学部のデータと照らし合わせながらどんな症状を抱えていて、どんなペースで通院しているか等、簡単な質問に答えた。色々聞かれた後、また
「本当にここまで来られてよく頑張ったね」
とおっしゃった。私は必死に疲労と悲しみとその言葉への嬉しさに押し寄せる波を堪え、頷いた。その後ゆっくりと保健室や専用のカウンセリングの紹介をされ、「いつでも連絡してね」と教えてくださった。私はお辞儀をし、保健室を後にした。
家に帰り、私は不安時のために処方された薬を煽り、ソファーに座った。そして次の授業開始日を考えた。それまでに時間割を決めなければならない。その前に紙束に書かれていることを処理しなければならない。私には重かった。今すぐにでも実家に帰りたいと思ったら、帰ったらもう戻れないと思った。それこそ休学してしまったら、復学できないまま何だかお先真っ暗なままこの世から消えそうな気がしていた。
そこからはまた時間に怯えた。逃避するように動画の画面をただ見つめ続ける。布団にくるまり必要以上に寝る。しかし時間は当然止まらない。私は恐る恐るLINEを開き、頼れる友人たちに時間割を聞き、それらに依存して時間割を決めた。ただ自分の中で一つ決めたことがあった。建築学科には当然設計の授業があり、学部時代は必須科目にもなっていたが、院に進むと論文を書いたりその他の状況に合わせて設計を取らない選択肢も出てくる。それを選ぶこともできたが、私は設計をしようと思った。卒業設計をしたとはいえ、私は耐えられずに逃げてきた。今だって苦しいし絶望している。けれどこの授業を取って自分なりに形にできたら自信になれる気がした。私には本当に大変で辛く憂鬱な授業だが、何とかして変わりたかった。そのために私は設計の授業を選択した。
設計の授業の当日、私は冷や汗が止まらなかった。恐ろしさに逃げ出しそうになる手足を必死に椅子に押し付けて、友人には何でもないような顔を取り繕って、説明を聞いた。授業の内容と共に配られた課題内容は、相変わらず文章の読めない私には疑問符が浮かび続け目の前が見えなくなった。その内、簡単な初日のガイダンスが始まった。文章では私は理解することが難しいので、必死にメモを取った。そしてどうにか得られた情報を頼りに、私はとある班に属した。人数が少ないことは私にとって唯一の救いだった。しかし今までの設計での死闘を繰り広げた部屋でまた設計を行うことを思うと、押しつぶされそうだった。来週までの課題が出される。頭を誰かに押し付けられている気分だった。来週までの空き時間を考えた。それまでに、私は先生の満足のいく回答が出せるのだろうか。ずっと誰かの怒鳴り声が私の頭の中に降り注いだ。
その後、簡単な就職ガイダンスが行われた。ただでさえ私は生きて、ここにとどまるのに精いっぱいなのに、これからの就職の準備についてつらつらと言葉が重ねられていく。「~~をよく理解しておくように」「秋から始まると思ってはだめだ」。あらゆる言葉が交錯する。その全てが、針のように突き刺さった。どれにも私にはできない、そして満足いくような結果を今まで出していない、評価されないと思った。
やはり就活は戦場だ。いかに自分と共に会社を理解し、これまでどんな成果を上げてきたのか、どう会社に利益を与えることが出来るのか、自分の力で内定をもぎ取らなければならない。外部での活動もコンペティションも何も行わず、ただ大学のことが一番だと邁進してやっとの思いで掴んだ『特待生』『学内優秀賞』などの言葉は、就活に成功した先輩の数々の外部の経歴を見れば薄っぺらい、紙屑のひとかけらものに感じた。学内だけで何を満足していたのだろう。戦場は社会であるのに。
私は耐えられなかった。今まで私は何をしてきたのだろう。自信満々にすごしておいて、何も成しえてないじゃないか。自慢ではないが、私の祖父や両親は同じ建築系の大手の会社の人間であり、自分の仕事に誇りを持っていた。建築が出来上がるたび、それを見に行った。またはこの建築を建てたと嬉しそうに語る祖父や父の話を聞いた。母は私を生んで辞めてしまったが、祖父や父は自分の仕事を全うし、生き生きとしているようだった。私は彼らに憧れて育った。彼らのように大きい会社に入りプロジェクトに属して、成果を上げて、家族の嬉しそうな顔を見ることが夢だった。
大手に入ることがどれだけ狭き門なのかなんてことは重々承知していた。それでも何としてでもと思い、歯を食いしばってきたつもりだったが、今までの4年間、いや今までの中学高校の生活に全くの間違いを犯していたと漸く今になって気づいた。とてもじゃないが、彼らのようにはなれないと思った。外部での活動や賞なんて、学部の勉学第一と盲目になっていたからなんの経歴もない。長所や何か秀でていることなんて、自分を何よりも嫌っているのに考えられなかった。文章も話もまともに読めない、聞けない人間が、自分をプレゼンテーションすることなんて考えられない。過去の作品を整理しようとしても、嫌悪の文字で目の前が埋め尽くされ、吐き気がする。
『将来が楽しみだなぁ』
建築学科に進むと伝えた時、今までにない笑顔を見せてお酒を飲みながら言った祖父の言葉が忘れられない。どこの大手に入るんだろうなぁ、とにこにこと予想していた。私が学内で成果を上げると諸手をあげて喜び、地域の人たちに教えてしまうほどだった。心から応援してくれた。父も母も嬉しそうだった。だから何としてでも内定を勝ち取りたかった。
頑張り方を間違えた。私には武器がない。今から何ができるのだろうか。息をすることだって辛いのに。学部を卒業し就職した皆は大変さに目を回しながら必死に頑張っている。同期だって、これからのスタートダッシュにむけてウォーミングアップを始めている。私はただ、目の前のスタート地点をただ遠くから眺めるばかりだ。帰り道、涙が止まらなくなった。マスク姿が当たり前の世の中で助かった。髪の毛で顔を隠し、ひたすらに泣いた。
今までのすべてを否定された気がした。大手どころか、どこにも入れる気がしなかった。皆は大変そうだなぁと口を揃えて言っていたが、何となくの方向性は持っていて準備しなくてはと焦っている様子だった。私はどこにも行く当てもない。今までもそうだったが今この瞬間つま先の先から暗闇が現れ、下からびゅうびゅうと風が吹いていた。
元々マルチタスクは苦手だった。私がうつになった原因は一言には言い表せないが、その中の一つに様々な事に押しつぶされたことがあった。言い渡されたのは、研究と、授業のレポートと、課題と、就活に向けての入念な準備。「時には自分をみつめなおしてゆっくりと」。どこにそんな隙間があるのか分からない。マルチタスクは社会人にとって必須の能力だ。それを鍛えなければいけないことなんて重々承知している。けれど、今の自分には到底できる気がしなかった。「最初からあきらめるなんて怠けだ」。声が聞こえる。どこの誰が言っているのだろう。もしかしたら昔の私かもしれない。幼い私が、生き方を間違えた私に怒っている。
今まで生きてきた私は何だったのだろう。生きていて、なんの意味があったのだろう。以前よりずっと、生きる意味なんてもう意味なんて分からなくなっていた。
そんな中、私は一通の手紙を見つけた。あて名は私の母校から。中学生の時、大人の自分に向けてメッセージを送るということがあった。律儀にも、母校の先生方が20歳の成人式に送っていただいたものだった。20歳の当時の私はなんだか恥ずかしくて、でも捨てられずにタンスに仕舞っていた。それが今再び出てきた。恐る恐る封を開けた。
中には2通入っていた。一つは、私の未来設計図。今―中学生の自分と、それから30代の自分のなりたい姿が描かれていた。なりたい自分にはぎっしりと文字が書かれていた。一級建築士になる。情熱大陸やプロフェッショナルに出てみたい。事務所も立ち上げたいが大手に入りたい。バリバリ働きたい。"祖父や父のような建築家になりたい"。
ごめんね、と一人部屋の中で口に出して謝った。まだ30歳でもないけれど、今の私が思い描ける真っ暗な未来にはほど遠かった。書いた時の心情は覚えていないが、きっと夢と希望に満ち溢れて生き生きと夢を連ねたのだろう。
もう一通は、二十歳の自分への手紙だった。もう22歳になってしまったが、時間がかかりながらゆっくりと繰り返しながら読んだ。他愛のないことから始まった。友人や家族は元気だろうか。趣味は変わっていないか。当時好きな人のことまで書いてあって思わず笑ってしまった。しかし節々に、こんなことが書いてあった。
『友達を作るのは今でも苦手ですか。私は苦手だけどだんだんみんなと仲良くなれたので、もしあなたが今は一人でもきっと、いつか絶対大切な人ができると思います。』
『一度は素敵な恋をしましたか。もしまだでも、きっとこれから出会えると思います。』
『5年もたってしまうと、好みも大きく変わってしまうと思います。それでも。今好きなものは大切なものは大切にしたいなと思います。貴方も、大切にしてほしいです。』
『今の私の夢は建築家ですが、変わりましたか。もし変わったとしても、あなたが思ったものだから間違いないと思います。
『もし貴方が周りの人から応援されないような、どれだけ悪く言われるような状況にあるとしても、私はあなたを理解しいつもそばにいます。今の私には想像できないような困難や苦しみを経験してきた、もしくはすると思いますが、それでもあなたには前を向いてほしいです。自分の好きな道を歩いてほしいのです。どんなにつらくても、死ぬときにはきっと幸せだったと思うことができると思います。
貴方ならきっと大丈夫。どんな道でも歩けると思います。私は、どんなあなたでも尊敬しています』
恐らく、いや確実にちょっとカッコつけて書いたことは予想できる。そしてどれも簡単な言葉だ。うつ病の啓発本やあらゆる動画などで言われる言葉よりも稚拙だ。15歳の当時も私は色々な場面に遭遇してかなりつらい思いをした。しかし彼女はそれでもまっすぐな言葉を私に届けてくれた。15歳の私が書いた言葉一つ一つが救いであり、同時に申し訳ないなと思った。こんな路頭に迷った自分でも、昔の私は尊敬してくれるだろうか。でもこの言葉を読んでから、不満そうだった昔の私の幻想は少し弱まった気がする。
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もし、今同じ状況にいらっしゃる方が読んでくださっているのならば、本当に大変ですよね。お疲れ様です。もしかしたら私よりずっと過酷な時間を過ごしてきた、もしくは今も踏ん張っているのかもしれません。それでも、もしこの昔の私のかっこつけた言葉が救いになればと思い、最後に書き添えました。自意識高いな、かっこつけやがって、と笑ってくれても構いません。それでも笑顔になれるのであれば、心が晴れやかになるのであれば、私は嬉しいです。
また、きっと私はここから続く死闘をつらつらと書き続けていくと思います。そのときまた誰か寄り添ってくださる方がいたら嬉しいです。
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