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生きた心地と安易な死~うつの大学生の掌握と中傷~

こんにちは。はじめまして。私の記事を読んでくださってありがとうございます。私は適応障害とうつを患っている大学院生です。もし似た境遇の方であれば互いに共感し合い、そうでない方もこういう人がいるんだと思ってくださるとうれしいです。

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とうとう2022年になった。私は年越しを見送り11時過ぎに寝た。朝起きたらおせちだの初詣などテーブルも日程も盛り沢山で、私はただ淡白に過ごしていた。
先月末に、私と友人で山形のはずれにある旅館に泊まった。そこでは炬燵を挟んで2つ布団が置いてあり、木造の建物は肌寒かった。それでも久しぶりにふざけたことを話して笑ったり、客数が数組と限られているため温泉が一人占めできることをいいことにはしゃいだりした。スマホのフォルダにこれだけ風景や友人がつまったことは本当に久しぶりだった。すぅと息を吸ったときにキンとした冷気と共に僅かな草や枝の香りがするのを今でも覚えている。
地元の宮城に帰り、私は家に閉じ籠った。特に出かける用事もない。外に出ても、中学高校とほぼ変わらない町並み。行けなくなった、と高校の友人の遊びのキャンセルの画面を見ながら布団に寝転んだ。私はテレビが苦手だ。沢山の情報に包まれて恐怖し、耳を塞ぎ目を瞑り、頭痛がする。両親は絶え間なく、「お菓子を食べようか」「お昼ごはんなに食べたい」、と優しく尋ねてくる。その答えるのにすら私にはパニックになる。だからリビングより少し寒い一人部屋に籠った。
唯一、遊びのキャンセルをしなかった友人と外に出た。会って一番に、真顔で大丈夫、と聞いてきた。私は正直に、いまいちだけど、何とかやっているよと答えた。どん底でもない。けれども何かしたいとは思わない。それがその時の答えだった。
友人と何気ない会話を楽しむのはやっぱり好きだった。動けなくなったら動けないくせにこういうときには快活な自分が憎くてたまらなかった。けれど目の前にいる彼女の笑顔が私の心を暖めてくれるのは本当で、終始笑顔だったのを覚えている。
彼女は今年で大学院2年生。私は1つ下がって1年生のまま。このまま差が広がるんだろうか。しかし彼女の友人たちは一浪二浪と学年が様々だった。それに仲間がいると思った自分に大いに恥じた。彼女たちは私の何百何千倍も努力して勝ち得た入学だった。

小さな窓、それも片側廊下の景色しか見えない薄暗い自室で寝て、ハッと息を吹き替えし、後輩の図面を手伝う日々。図面と向き合うこの瞬間が生きていると感じるのに等しかった。過去の建築のトレースでも、私は線を引く度に生み出される建築の凹凸奥行きが現れるのが好きだった。そして一面書いただけで、私はまだ動けると手を繰り返し握った。

その頃だろうか。私はブルーピリオドというアニメに出会った。不良の学生が絵に目覚め、藝大を目指す話だ。
主人公の姿が私に重なった。私が学部時代に建築が分からず、それでも形にしようと周りと切磋琢磨していた自分に似ていた。努力しかできないから、という主人公に共鳴した。力強い筆のタッチ。色に染まっていくバケツ。積み重なるキャンパスとスケッチブック。世田介という天才が登場するのだが、その言葉一つ一つは、かつて私が追いかけていた、そして学部4年生に一緒に勉強会を開いていた彼女を思い起こさせた。世田介くんの言葉が全て彼女から聞こえるようだった。私にとっては彼女は、天才であった。同時に好きな為なら何でもする、己を貫き努力を重ねる人であった。
私は彼女に思ったことをLINEした。返ってきた言葉は謙遜の言葉とまた飲みに行こうという言葉だった。彼女は今、藝大で何を。

私はこのときまだ私は立ち上がれると思った。まだ後輩の図面の手伝いしかできないけれど、図面を書きたいと思った。模型を作りたいと思った。手足は動いている。
将来のことを聞かれると、目の前が真っ暗になりうずくまる。でもこの瞬間、何も考えず今の時間は設計をしたいと思った。私は、私が思っているよりもきっと、多分だけれど、ほんの少し強いよ、と心の中で弱くて死にたい自分の頭を撫でた。私は東京に戻りたいと思った。

東京に戻ると間髪いれず私の日常は大学の卒業制作に染まった。たった一人、実家でもくもくと作っていた去年とは大違いで、沢山のエネルギーの塊がそこにあるようだった。
その中で、私が手伝う子に人間関係のトラフルが突如襲いかかった。それは彼女のせいでは全くなく、相手に問題があった。私はその問題の深さ重さに耐えきれず、自分からも相手にメッセージを送った。普段の私では考えられないことをした。恐らく、変に上向きの気分が暴走していたのだと、後にカウンセラーさんに言われることになる。
その結果行われた話し合いで、関係はさらに悪化した。当時は彼女の愚痴に合わせて私も罵っていたが、心のどこかで今回の喧嘩の発端は私であることに気づきはじめていた。どんどん言葉を弱め、彼女に謝る。彼女は、悪くありませんよ、と健気に返してくれた。
私は自分の罪に耐えきれず、

人間関係に首を突っ込んでしまった。その結果、相手がさらに逆上してしまったらしい。
今回の話し合いは私が火種でなってしまったこと。申し訳ない。本当はやってはいけないことに気づかずにこれまで何度もしてきてしまった

Gravity 1月19日の投稿

と呟いた。その結果返ってきたリプライが

「誰でもそんなこと分かりきったことです」
「あなたは彼女を傷付けた」
「謝るなんて今さらしても、自分の罪をただ赦そうとしてもらう行為」

私は、とんでもないことをしてしまったと、馬鹿で愚かな私は気づいたのだ。
こんな私が手伝いをして彼女は集中できるのだろうか?人間関係をさらに壊しにかかった私に、謝ることもできないのなら何ができる?
自分を恥じた。侮辱した。やっぱりどこまでいっても惨めで最低な女だった。吐き気がした。もし自分自身が可視化できたなら、私はハイヒールを履いてぐちゃぐちゃな肉片になるまでに踏み潰すだろう。
私には、泣く権利はない。彼女の方が傷付いているのだから。
私に食べる権利もない。こんな私が生きていても仕方ないから。
私には寝る権利もない。安らかな時間を受ける権利はないのだから。
私は手伝いが始まるまで全てを放棄した。その時に、今なら死ぬことができると思った。
今の私なら、設計をまたやれるのに近づくかもしれないと思って東京に戻ってきた。そんな私は思い上がって、他人の人間関係に自分の偽善の正義を押し付けて口を挟んだ。何度過ちを繰り返すのだろう吐き気がするほどの自分は生きる価値がない。

私は予約した心療内科に向かった。最後だと思っていた。しかし、泣いてはいけないという掟は、カウンセリング室で崩壊した。大罪を置かしたことを伝えた。カウンセラーさんは真摯に冷静に受け止めてくださった。そして、私は悪くないのではないか、と優しい言葉をかけてくださった。
これまで私に向かってきた言葉たちは、誰も私や友人たちのことを知らない人の言葉。それはただ人を傷付けるための言葉。そんな誹謗中傷の言葉であなたの生死を決めたらもったいないとゆっくり諭してくださった。
死ななくていいのか。赦してもらっていいのか。それは相手の彼女の問題だけで、それについて私がどうしたいか、ということだった。私は被害妄想をして、大丈夫といった裏で私のことをひどく憎んでいるのではないかと怯えていた。でも彼女の言葉を信じなさい、と強く言われた。
私は、カウンセラーで声をあげて泣くことはほとんどない。今回が始めてだった。私はゆっくり頷いた。

私は続行して生きることを決めた。
なんてあやふやな生死だろうと思う人は沢山いると思う。けれど生死を軽んじているわけではない。私は真剣だ。結果それほどまでの精神力で生きている。ひとつ勇気を振り絞れば、私はナイフを己に突き通せるくらい、脆い。それを分かっていただけたら嬉しいと思う。ただ、強くありたいと私は薬を多めに飲んだ。

彼女のためなら何でもしよう、友人として今以上の力を発揮すると誓った。
私は彼女と大学で再会したとき、静かにハグをした。お疲れ様、あなたは悪くない、そしてごめんね。全てを込めたハグだった。そして離れたあと、ごめんなさい、と伝えた。彼女はあっけらかんと大丈夫ですよと言ってすぐに卒業制作の話をし始めた。その優しさに、また私は救われる。

大学院生室に入ると、そこにはかつての仲間がぽつりぽつりといた。ひさしぶり!と逞しい声で、でも変わらない笑顔で私に声をかけてくれた。廊下でも同じだった。
私はそれに、どれだけ励まされただろう。私のことをまだみんなは覚えていてくれた。笑顔で話しかけてくれた。私の居場所は変わらずにここにある。それに泣きそうな位嬉しかった。

「就活、どう?」と、一番私が恐怖を感じていることを聞いてみた。すると、「全然」とあっけらかんと笑った。嫌になったから後輩の手伝いしているんだよね、と付け加えた。
あの大学の院生室は楽しいだけじゃない。どろどろに煮詰まった悲しみ悔しさ無念さがあり、それでもお互いに支え合っている。

4年生の姿をちらほら見かけた。お互いに真剣に顔をつきあわせて話し合っている。作業する合間にすれちがって挨拶をしたり、できないつくれないとお互いもたれかかったり。いつも設計室で見ていたみんなの苦悩がより凝縮されてそこにあった。人間関係が加わりみちみちとしているその世界が、実は羨ましくもあった。私は大学で誰かに一線を引かれてしまうタイプだ。もしくは、私が引いているのか。それでも、皆と共に共闘したい気持ちはあった。だから設計室は楽しかった。
一年前コロナで大学に行けなかった冬、私は一人自室でギリギリと鉛筆の芯を走らせながら文字通り命を削って制作をした。そのときに同じ苦悩を抱える人たちと作業していたら、変わっていただろうか。過去のことを考えてもしょうがないのに、このことを考えると涙が出る。

こうなってしまった、落ちるところまで落ちて、テレビが苦手でようやく少しずつまとまった文章を読めるようになっただけの、努力が取り柄だったはずなのにその努力ができなくなり長所がもがれた私に、以前と変わらず接してくれる全ての友人に感謝したい。そして私の力を必要としてくれた彼女に一番感謝したい。また、設計をする場所にひっぱりあげてくれて、ありがとう。きっと私一人では以前面談で倒れたときのように吐いていたかもしれない。心から感謝したい。

自分の作業場所を開けて、後輩の指示を聞く。簡単な作業だった。さらりとした紙に鋭い刃で切り裂いていく。ねばついた塗料に絵の具を混ぜて、ブロックに色をつける。単純な作業。きっと小学生でもできること。それでも嬉しかった。私の作品ではないけれど、筆を、カッターナイフを走らせるのは嬉しかった。生きている感触が手に伝わった。かつてがむしゃらに作っては壊し、直し、吟味していた自分と重なった。


私は、まだ、きっと、できる
できるはずだよな?
私は将来に震える私に声をかけた。
今は、やるしかない。

私はラストに向かって後輩と走りはじめる。

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