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ファンでない男が人生で初めて安室奈美恵のことを1日中考えていたら、その仕事の大きさに気づいて、大きな喪失感に覆われた論

2000年代のJPOPが安室奈美恵と一緒に置き忘れてきたものと、グローバリズムからズレた日本社会のおじさん化のことは。控えめに見積もっても1時間くらいは考えた方がいいと思う問題だと思います。

予言的なつぶやき「保育園落ちた日本死ね」のツイッターが話題になったのが5年前。2016年2月。日本では熊本の大震災があり、アメリカではトランプ大統領誕生。そしてリオ・オリンピックの年。

このツィートが保育園と関係ない人たちの間でも広く関心持たれた背景には、「日本ってこの先死ぬんじゃないか?」と心のどこかで思っていたからじゃないかと当時も感じました。そのうちにもうノーカンになってしまっったのですが、最初の「心の引っ掛かり」の気持ち悪さを今も感じます。

その頃、今回のテーマである安室奈美恵さんといえば、NHKのリオ五輪のテーマ「HERO」を担当。毎日何度も流れていていました。
この曲、少し流れるだけでは「確立した大スターが歌いそうなスローテンポで漠然とした歌」という印象。好きも嫌いもありませんでした。ただメディアにはあまり登場しないけど、安室奈美恵という大スターが存在するという感じでした。大半の人がそうだったと思います。

そして、その翌年2017年9月に、突如「翌2018年9月16日に引退すること」をサイトで発表。会見などは行われず、みんな「えっなんで?」、「何があった?」、「もったいない!」と勝手なことを言いながら、2018年大スターの引退を戸惑いながらなんとなく見送ったと思います。

そして現在。安室奈美恵のいない世界。
リオ五輪から4年後に東京オリンピックが開かれるはずでしたが、2019年12月に中国・武漢市で発生した新型ウィルスが、世界感染拡大・パンデミックになり今に至っています。最初「日本は大丈夫みたいだね」とか、言ってたら全然大丈夫じゃなくて、不要不急ということで学校とエンタメと飲食が封印されて、現在に至ります。退屈で普通の明日があると思ってダラダラ生活していたら、パンデミックの世の中になっています。

一方で、韓国の音楽シーンはとても健全で元気な印象です。BTSが「Dynamite」でアメリカのビルボードで1位をとって、そのあと「BUTTER」も1位。YGのBLACKPINKも韓国語曲で同じくビルボード入り。
BTSが所属するBigHit EntertainmentはHYBEと名前を変えてアメリカ法人はジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデが所属する事務所を吸収合併。またCJ ENMのMnetで制作されるオーディション番組のPRODUCEシリーズは中国でも成功し、日本にも輸入されて深夜放送されている。2021年6月に入って大谷並みに海外で活躍する日本人が三人いるJYPのTWICEは順調にカムバック、次の世代のガールズグループのaespa、ITZ、STACYらも仕上げ抜群の状態で活動しています。

90年代、00年代の日本のPOP音楽はグローバルミュージックにつながっていると漠然と思っていたが、結果全くそういう風にはならず。アジア発として隣国韓国が代理実現している現状の複雑な思い。

 そんな気持ちがはっきりと下の歯、2018年にMnet企画・AKB48グループ協力で行われたオーディション番組「PRODUCE48」。この番組の開始早々、日本からの40名近いAKB系のオーディション参加者が次々とF判定(最低ランク)となりました。
 そのシーンがこちら、審査委員との間に不穏な空気になってます。

審査員の振付師ペ・ユンジョンから
「韓国のアイドルは切れのいいダンスや歌の上手さで人気があるが、日本では歌もダンスも重要ではないのか?」
そこでAKB系参加者は「日本では愛嬌やかわいらしさが歌やダンスより評価されます」と答えた。
審査員達は「文化の違いね」と納得しようとしていたシーンの違和感。

「そんな訳ない」と審査員は知っている。
 ペ・ユンジョンは、日本でヒットしたKARAもT-araを振り付けているしだ、日本のbump.yの振り付けもしている。イ・ホンギはFTISLANDで日本デビューしているし、日本の事も良く知っている。
 どこの世界でもPOPSスターは歌とダンスが出来ないと通用しない。愛嬌が一番は、サービス業の初級段階の話で、この点、AKB系デビュー組にアイドル概念の誤解が発生しているとしか思えない。

そんなKPOPとJPOPの勢いの逆転を検証する意味で、2000年前後日本のメジャー系音楽会で何が起こっていたのか?その頃のJPOP史を振り返ってみたいとおもいます。

2000年代日本で誰が流行っていたかというと、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、SMAPが3強でした(大胆な言い切り)

2010年代になると嵐、AKB、EXILEが3強として幅を利かせる。(他にも一杯いるだろうが)
この2000~2010年の10年間は「失われた10年」とは思いたくないが、トレンドチェンジというほど大きな変化が明らかに少ない。(ここ多分重要なところ)

では、その前の1990年代は?とさらに遡ると

前半はサザンオールスターズ、XーJAPAN、井上陽水、ZARD、CHAGE&ASKAとお馴染みのレジェンドが揃い。背景としては、バンド系・ニューミュージック界の勝者と、アイドル時代最後の生き残り小泉今日子と工藤静香が存在感出している。80年代に作られた流れが続いていたと大雑把に把握できる。旧メディアミックスであるドラマ主題歌タイアップでヒット曲が量産できた神話時代。(今のエンタメの上位権者とかはこの時代の旨味経験がある)

ただ、その90年代にあっても後半は過渡期。
業界的に重要なのが、この時テクノとハウスの日本レーベルであった新進レコード会社エイベックス登場。がエレクトリックダンスミュージックで日本を席巻する。ニューミュージック以降最大の変革期。この時期の最重要人物が安室奈美恵。

95年~97年の3年間は完全に安室奈美恵の時代だった。

韓国KPOP界の今につながるダンスアイドルグループの立ち上げ時期は1995年~1998年あたり、2大事務所のSMエンタとDSPメディアが、それぞれH.O.T.とSechs Kies、S.E.S.とFin.K.Lら、競い合う第一世代のデビュー時期。それより少し先行した大アイドルのソテジワアイドゥルが解散しメンバーのヤン・ヒョンソクがYGの原型事務所を作ったのもこの頃。日本では安室奈美恵がデビューし、スターダムに登っていく時期と一致することは重要だと思う。

デビューから振り返る安室奈美恵と90年代後半のエンタメシフトチェンジの検証
(この先、長々と時代背景の説明が続きますので、興味ない方はデビュー動画まで飛ばしてもらっても大丈夫です!)

 安室奈美恵のデビューの特徴として、その出身が東京でのオーディションやスカウトではなく、沖縄アクターズスクールからのいきなり東京に来てユニットのままデビューした珍しいパターン。
 沖縄アクターズスクールという、名前だけ見ると当初は俳優養成を目指していたように見える。校長のマキノ正幸は、祖父が日本映画の父・牧野省三、父は映画監督マキノ雅弘。母は宝塚歌劇出身の映画女優・轟夕起子という映画界のサラブレッドの出自。そんな正幸が、沖縄へ移住しそこで新しい才能を見つけ育てようとして解説したのがスクールの始まり。そこに娘の牧野アンナがアメリカン・スクールを卒業し、アクターズスクールに入所するから、すでにこの時期には歌と踊りを教える学校になっていた。彼女はその後、一度東京でアイドルとしてデビューするもすぐに沖縄に戻っている。そして学校のインストラクターをしている。その頃、見学に来た中学生だった安室を校長の正幸がひと目見て、特待生として授業料無料で入学させたのは有名な話。この生徒たちの中から、SUPER MONKEY'Sのメンバーを選抜している。

この「SUPER MONKEY'S」という不思議な名前を持つアイドルグループのベースが、安室奈美恵の後の音楽性やスタイルに影響をもたらしていると思うので、安室がソロシンガーになる前の時期を見ておきたい。

まずはじめに、女子アイドルグループでなぜ「SUPER MONKEY'S」という名前にしたのか不思議。アメリカ文化に精通してしかも沖縄で学校を開いている正幸校長なだけに、的はずれな付け方をしたとは思えない。「荒削りだけども日本本土に負けない才能ある元気な子どもたち」という意味合いで、南の島から東京の芸能界にを変えてやろうとする野心もあったのではないかと思う。メンバーの特技も本格R&Bダンスと琉球空手とユニーク。東京の洗練されたアイドルとは違う、荒削りだが、素地キャラクターの良さ、個性を重視して選んでいるように思える。
 東京へデビューの準備をするために向かった中学生メンバーには、当時二十才の牧野アンナ自身もなぜか加わり総勢女子五人グループとなった。デビュー時のSUPER MONKEY'Sはジャクソン5的に子供が大人の歌を歌いながらシンクロダンスをするアンバランスさを狙っていたように見える。

5人1

(新垣寿子、牧野アンナ、安室奈美恵、天久美奈子(後のMina)、澤岻奈々子。琉球空手の道着スタイルの衣装。言っては悪いが安室だけ明らかに輝きが違う!)

 この時代にダンスグループをデビューさせようとした背景には、ボビー・ブラウンを筆頭するニュージャックスィング、ブラック・コンテンポラリーとヒップホップの世界的ブームがあった。ニュー・エディションを脱退したボビー・ブラウンは1988年に「Don't Be Cruel」がミリオンセラーを記録。シングル5枚が同時TOP10入り。日本でもCMのタイアップ曲でバンバン流れた。MCハマーの「ユーキャントタッチディス」は日本でも散々真似された。そしてジャクソンファミリーの末っ子・ジャネット・ジャクソンが、新しいセンスをもったジャム&ルイスのプロデュースによりアルバム「コントロール」「リズム・ネイション1814」を発売、R&BとメジャーPOPS両方で世界を席巻した。
 日本の若者シーンでも大きな影響をもたらし、テレビの深夜帯にはダンスが編成。のちのEXILEのHiroが所属したZOOが誕生。急ごしらえのファンクコンビのバブルガム・ブラザーズなども登場。ファンク、R&B、HIPHOPのブラック・ミュージックのファッションブームも始まり、90年代のBボーイスタイルなどにつながっていく。ただこのときはブームであっても、日本人が歌うR&Bやダンス曲とセールスは別物だった。ただ、この時期に小学校高学年~中学生だった安室奈美恵世代は、このブームを当たり前のものとして吸収していっている。

 一方、当時の日本はバブル景気! 1989年12月に日経平均株価が38,957円の史上最高値を記録。地価高騰した繁華街を離れ湾岸地区が再開発され大バコクラブが作られる。江東区「MZA有明」、芝浦「ゴールド」ナイトクラブやディスコが次々と湾岸にオープンしていく。景気の良いアッパーなユーロビート、ハウス、R&Bなどダンス曲がかかった。そして、1991年にはジュリアナ東京がオープン。R&Bオリジンとは別の、とにかくトランス的に踊りまくるイタロハウス、ハードコアテクノを主とした。そこで1990年9月に松浦勝人が設立したエイベックス・トラックスは、ヨーロッパパーティー&クラブDJ系サウンドの国内発売権を廉価で取得し、ジュリアナ・コンピレーション・アルバムやスーパーユーロビートシリーズとしてリリース。大手レコード会社が手に出しにくい、有名な歌手も芸能界も関係ないジャンルで新しい市場開拓に成功、その存在感を増しつつあった。そこで

そんな社会背景の中で、SUPER MONKEY'Sはメジャーデビュー。
1992年1曲目「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」(東芝EMI/イーストワールド)

どうですか?今でも十分通用する名曲(安室さん後のコンサートでも歌っているから気に入ってたと思います)。メロディーもアレンジもいい(曲の構成とかサビはこの後のKPOPに近い)。しかも歌が上手い、低音から高温も無理なく歌いきってる。
ただ、このあどけない子供顔でソウル感じる歌唱とタメのあるダンスのアンバランスさは、当時のアイドルファンや同世代女子には支持されず、健闘するもオリコン最高位29位止まり。
デビューコピーの「OKINAWAからカリフォルニアが見える」はよくわからないが、当時まだ沖縄出身というのが特別な時代だったことを感じ取れる。

このPVは今見ても作りがシンプルなだけに、安室のダンスセンスと華は突出しているのがわかる。ただ安室の声質は、この時でもかわいいアイドルの声ではなく、中低音が豊かなハスキーボイスでR&B、ジャズ向き。

ちなみに1991年のオリコンランキング上位は
1 「Oh!Yeah! /ラブ・ストーリーは突然に」 小田和正 
2 「SAY YES」 CHAGE&ASKA
3 「愛は勝つ」 KAN
4 「どんなときも。」 槇原敬之
1977年生まれで当時14才の安室奈美恵らお子様アイドルグループが歌で売れる時代ではなかった。

このほぼ同じ時期にCDデビューしたのがSMAP
安室奈美恵と共にその後エンタメ界を席巻する存在だが、新人紹介の余力のあるようなゴールデンの歌番組が消滅した不遇な時代のデビュー。
1989年のWINKを最後にアイドルのCDが売れる時代ではなくなっていて、事務所の営業でバラエティやCMで顔を露出するしかない。歌だけでは新人はどうにも売れるきっかけがない時代だった。
SUPER MONKEY'Sの初期EMI時代の作曲は小森田実が3曲担当。彼が後にSMAPで「SHAKE」「ダイナマイト」を作曲し、SMAPが安室奈美恵と共に2000年代のJPOP時代を作ったことを思うと運命的。

その後のガールズグループのブームを盛り上げたモーニング娘は1998年デビュー。まだまだ先の話。

1992年時点ではこの後もSUPER MONKEY'Sの不遇の時代が続きます。お付き合いください。

翌年1993年5月に2曲目「ダンシング・ジャンク」リリース。
前年に牧野校長の娘・牧野アンナが脱退し、グループ名も新たに"SUPER MONKEY'S 4"に変わった。ジャム&ルイス系の打ち込みビートでいい曲なんだが、アニメ「忍たま乱太郎」のタイアップというアンバランスさで、週間オリコンランキング68位と結果はさっぱり。大人でも子供でもなく支持層が生まれていない。まだまだ苦労は続く。

「忍たま乱太郎」に寄せた歌詞と3人がメインのラップ部分は正直首をかしげるが、アイドル曲のベテラン馬飼野康二作曲により、安室の声域にあったR&B調の歌は聴き応えがある。

11月に3曲目「愛してマスカット
タイトル通りのロッテのマスカットガムのCMタイアップ曲(動画の次には「PARADISE TRAIN」版もついてます。2曲連続タイアップ)

この曲もオリコンランキングは週間で67位とさっぱり。
このCMを見ても安室奈美恵がどんどん洗練されてきて(まだ前髪のあるかわいいイメージ)、悪いけどMAXチームとはものが違っている!ただキャラクターが良くて歌がうまいことと、曲が売れることがリンクしない当時。バラエティ番組などに出演してついでに歌わしてもらって知名度を高めないとどうにもならない。これは当時のSMAPも同様。

所属するライジングプロダクションは、安室の才能に賭けていたのか、作家陣に一流を揃えて、CMにバラエティに押しまくっている。ライジングはアイドル時代最後期に荻野目洋子で立ち上げた若く勢いある事務所で、80年代には「ダンシング・ヒーロー」で洋楽ディスコ曲のアイドルアレンジで成功体験があった。

1994年5月には4曲目シングル「PARADISE TRAIN」をリリース、ここで名前が「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に変わる。

作詞:売野雅勇 作曲:中西圭三 編曲:小西貴雄 で安室奈美恵の声質にとてもあった、JPOP感ある名曲だと思いますが、しかし売上はオリコン週間137位とかなりやばい状況で解散寸前。
デビュー2年経っても新人アイドル扱い。この当時、事務所は安室奈美恵のスター性を何とか広く浸透させたいと、フジテレビの子供番組『ポンキッキーズ』に出演。鈴木蘭々と気ぐるみユニットのシスターラビッツで子どもたちの間で知られていきます。

この当時の動画いくつか今もネットで見られるのですが、歌とダンスへの真摯な姿勢はきぐるみ着て童謡を歌っていても感じられます。しっかりR&Bしているのも流石です。この当時のSMAPも同じく、バラエティーに出て顔を覚えてもらってそこから音楽を聞いてもらうしか、新人アイドルが目立つ道が無かった時代。

1994年時点での在籍メンバーの名前と年齢構成を確認しておきたい。

安室奈美恵 
沖縄県那覇市出身 1977年9月20日生まれ(当時17才)
デビュー時からメインボーカル&ワントップ。

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澤岻奈々子(たくし ななこ)
1976年3月25日生まれ(1994年時18才)。那覇の隣の南風原町出身。
牧野抜けたあとの2代目リーダーで最年長。とても大人っぽい顔つき。
当時の映像を見ていてもダンスの切れと表情が良くアイドル性を感じる。並び的にも安室の2番手ポジション。
後のMAXのNana。

天久美奈子
1977年12月29日生まれ。那覇市出身。
安室と同い年で、歌唱力とダンスでアクターズスクールでは競い合う。並びは3番手。後のMAXのMina

(途中参加)
松田律子
1977年2月26日生まれ。那覇市出身。
脱退した新垣寿子と入れ替わる形で、宮内と共に1994年10月に加入。
出身母体は同じだが、ボーカルダンスグループとは別ラインのデビュー予定が白紙となり、SUPER MONKEY’Sに途中参加。
後のMAXのLina

宮内玲奈
1978年1月6日生まれ。那覇市出身。
歌手志望で途中参加。安室とは同じ中学校。
後のMAXのReina

この時点では脱退していた牧野アンナについて触れておきたい。
前述したように彼女はマキノ正幸校長の娘で、デビュー経験もあり、アクターズスクールのインストラクターでもあった。年齢も安室より4才も上。真相はわからないがグループダンスボーカルグループ構想が、安室ワントップの路線に変更する中で、役割の終わりを感じて脱退したのではないかと思う。
いずれにしても中学生時代に夢を追って沖縄の親元を離れて慣れない東京に来て、1990-94年の共同生活していた4人の当時の不安はいかほどかと想像できる。


そして!

1995年1月。安室奈美恵18才。デビュー3年目いよいよ後がない。そこで、今までのR&Bポップ路線から、起死回生の大勝負として、avex traxを設立しジュリアナ東京で名を覇していたMAX松浦ユーロビート路線でのプロデュースを依頼。イタロ・ディスコ、ユーロビートのブームを牽引するデイブ・ロジャースが外国曲をアレンジした画期的な「TRY ME 〜私を信じて〜」がリリースされる。

高速BPM、トランステクノ系の渇きまくったドライなビートという、今までの安室の音楽的背景とは違う平坦なバックトラックで、安室の歌唱方も前乗りでうねり少なめで、平坦な歌謡曲風になっている。しかし、声量余力十分でエモーショナルなボーカルが、この時代の危うい絶頂感と合致し大ヒット!
ただ、この顔や全身が良くわからないMVを見ても、それまでのSUPER MONKEY’Sのアイドル路線を嫌ったMAX松浦が、年齢不詳のボーカル&ダンスチームとシフトしたのが伺える。


メンバーチェンジ後のSUPER MONKEY'Sはバックダンサー化はしたが、今のKPOPのように役割分担をプロとしてすることでより洗練度を増してきている。
オリコンも初登場49位から週間8位まで上昇、ダブル・プラチナも受賞する。

そして、皆様お待たせしました!怒涛の快進撃!

1995年
4月にユーロビート路線第2弾!「太陽のSEASON」も大ヒット!VERONICA SALESの「SEASON」のカバーで同じくMAX松浦プロデュース!歌謡曲としてはありえないシンセの超高音イントロから、1オクターブしたの音から安室が低く歌い初めてサビで急高音化する正にクラブサウンド!
10月レコード会社もデビュー以来の東芝EASTWORLDから、avex traxへ移籍。
小室哲哉プロデュース第1弾シングル「Body Feels EXIT」リリース!

それまでテクノベースで歌詞とキャラクターがあってなかったが、ここで小室による安室専用曲誕生により高音域を使い切ったエモーショナルな歌が誕生!
なんと1ヶ月後に「Chase the Chance」。安室のラップセンスもフルに使った曲。全身で踊って、歌い上げる。
キャラクターもいわゆる茶髪ワンレン、ミニスカート、ロングブーツのアイコンが完成!幅広く浸透!


夢なんて見るモンじゃない
語るモンじゃない
叶えるものだから
18才の安室奈美恵を通じて、このメッセージは当時10代に深く刺さった!
久々にヒット曲と10代がボジティブにリンク!特にティーンが元気になった。

オリコンシングルチャート1位獲得。ミリオンセラー。第46回NHK紅白歌合戦にも初出場した。

1996年
「Don't wanna cry」(3月)、「You're my sunshine」(6月)。
9月の「SUMMER PRESENTS '96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S」スタジアムライブをもって、安室奈美恵とMAXが分離、完全ソロ化する。「a walk in the park」(11月)がミリオンセラー。セカンドアルバム「SWEET 19 BLUES」はセールス350万枚という凄まじさす!

この年、月9ドラマ「ロングバケーション」主題歌となった「LA・LA・LA LOVE SONG」で、R&Bの伝道師。久保田利伸がでランキング1位をとる。JPOP界をR&Bスタイルが牽引する時代が到来。

1997年
「CAN YOU CELEBRATE?」がダブルミリオンを突破し、オリコン年間シングルチャート首位を獲得。10代の歌手としては史上初のシングル・アルバム総売上げ2,000万枚突破を達成した。
アーティストのキャラクターとプロデュースが消費者と合致して、かつビジネスススキームが高稼働して、芸能界&マスコミも協力関係で結果を出していった稀有な例。ただそうなると気になるのが消耗感。

翌年、1998年…
12月31日紅白で「CAN YOU CELEBRATE?」紅組トリとして登場後に一回半引退。まぁSAMとの結婚という、戦略外の出来事によるのですが。小室哲哉のプロデュースから離脱など、私も含めて特別にファンでは無かった人の記憶が鮮やかなのはここまでだと思います。例えて言うならマイケルジャクソンの「スリラー」「BAD」あたりで絶頂期です。マイケルはこの後、名プロデューサーのクインシー・ジョーンズと別れ、ネバーランドに引きこもります。

そして1998年12月にもう一人の時代を変えたR&B系ヒットメーカーが登場します。

宇多田ヒカルです! 

1stシングル「Automatic」は、R&Bとエレクトロ系クラブミュージックが融合した新人とは思えない完成度の曲で空前の大ヒット翌年2月までにミリオンセラー達成。1999年3月発売の1stアルバム「First Love」は初週で200万枚を突破、国内の歴代アルバムチャート1位となる。売上総枚数は日本国内のみでおよそ700万枚越え。

そして、この時期テレビ東京の「ASAYAN」内の女性ロックヴォーカリストオーディションからモーニング娘。が誕生(1998年)し、グループアイドル路線が復活。また2000年の男子ボーカリストオーディションからASAYAN超男子。川畑・堂珍コンビが誕生、翌年にCHEMISTRYとしてデビューし、デビューシングルが1位となり、ジャニーズ以外の男性ボーカルグループとしては21年ぶりの快挙を成し遂げます。JPOP界が大きく変化していきます。

一方、2000年に安室奈美恵がカムバックしてきますが、短期間にとんでもなく成功し結婚出産を経た後、2000年代の安室奈美恵のマスメディアでの扱いは、いつまでも「CAN YOU CELEBRATE?」「NEVER END」などのスローテンポ曲や、時々スペシャル音楽番組で中継かトリで出てくる孤高の存在。
今もそうですがマスメディアは新曲の紹介よりも、皆が知っている過去のヒット曲を流すほうが楽に支持されるので、安室奈美恵は23才なのに、大スターで「上がり」の人という扱いを受けます。これはソロシンガーの場合、今も一緒ですね。結局、そこから引退までの18年間。安室奈美恵はトップスターとして日本エンタメ界に存在し続けながらも、ファンでない僕のような人にとっては、自分との関係性の距離、好き嫌いの判断しようがない、実像が良く分からない人という印象でした。プロシンガーというのは、そもそもそういうものかもしれないですが、グローバルミュージックと日本の芸能界のズレがこの辺りから顕著になってきたように思います。

ここで、改めて私の知らなかった、2000年以降の安室奈美恵さんの活動記録をWIKIPEDIAでちゃんと調べてみました(一次資料じゃないのかよ)。

するとこの18年間にすごく大事な出来事が起こってました!

1,安室奈美恵は日本のPOPミュージック界とグローバルミュージックとのリンクと取り続けたスターだった。

2、ヒット曲フォローではなく、そのスターパワーでPOPミュージックジャンルをアップデートし続けていた。「人気とかっこ良さの両立」を追い続けたキレキレの人。

3、その結果、新しい観客、若い世代、アジアの観客へ挑戦し続けた。

だと分かりました。
今まで知らなくて安室さん申し訳ないという気持ちです。



*ここからは、編集されたインタビューや、音楽ライターが書いた安室奈美恵論を参考にすると、本当かどうか分からなくなるので、あくまで発売されたオリジナルアルバムを私が聞いた印象を紹介していきます。

2003年
ZEEBRA・VERBALらとプロジェクト「SUITE CHIC」とアルバム「STYLE」。

大人のR&B・HIP HOP志向を強める。世界的にはジャネット・ジャクソンフォロワー志向、音楽的にはグローバル志向を日本の大衆エンタメ界に広めた功績は大きい。ただ一方で、小学校の運動会で使われるような、かわいさ、歌いやすさ、マネしやすさという芸能界大衆アイドル性から離れていくことなる。

かってのような派手なミリオンセラーは出ない一方で、他アーティストとのコラボや、大規模な全国ツアーを年間展開!そして、韓国・台湾アジアツアーを成功。
韓国は2002年のW杯共催を期に日本の音楽の解禁が始まり、それまで音楽祭やイベントなど限られた場面でしか観られなかった日本の歌手がコンサートできるようになります(もちろん海賊版やコピーはそれまでも結構出回っていたようです)。韓国で単独アーティストコンサートをした日本の最初の歌手は安室奈美恵なんです。
渡韓した際の韓国芸能ニュース

AMURO NAMIE So Crazy Tour in Seoul 2004

このソウルでのコンサートどうみても安室さんの体調万全ではなく、声もつぶれてますが、録音とMIXのボーカルにせず生で歌うところが根性。
なぜこんなに疲労しているのかというのSO CRAZY TOUR 2004のスケジュールがえげつないことになっている。ちょっと長くなりますが、当時の安室奈美恵がどれだけ働かされていたかを知る、日本芸能界にとっても大事な資料ですので、全部記録します。

namie amuro SO CRAZY tour
2003年
11/29 長良川国際会議場
11/30 三重県文化会館
12/07 宇都宮市文化会館
12/11 東京国際フォーラム ホールA

12/10 6枚目のオリジナルアルバム『STYLE』リリース!

12/12 東京国際フォーラム ホールA
12/14 仙台サンプラザホール
12/19 長野県県民文化会館

2004年
01/09-10 名古屋センチュリーホール
01/12 アクトシティ浜松
01/15-16 東京国際フォーラム ホールA
01/24-25 神戸国際会館
01/30 秋田県民会館
02/01 盛岡市民文化ホール
02/07-08 石川厚生年金会館
02/13 倉敷市民会館
02/14 広島厚生年金会館
02/22 北海道厚生年金会館
02/27 鹿児島市民文化ホール
02/29 長崎ブリックホール
03/04-05 グランキューブ大阪
03/07 愛知県芸術劇場
03/13 新潟県民会館
03/19 群馬県民会館
03/21 仙台サンプラザホール
03/24 熊本市民会館
03/26-27 福岡サンパレス
04/03-04 大阪フェスティバルホール
04/11 東京国際フォーラム ホールA
全35公演 3カ月間週末コンサートとテレビ・ラジオ・取材アルバムプロモーションというスケジュール!ソロだから全部自分1人(当たり前だが)
その後、台湾と韓国公演。
5/1 - 5/2 SO CRAZY in Taipei 新荘体育館
5/13 - 5/15  So Crazy Tour in Seoul 2004 オリンピック体操競技場

この流れキツイと思います。さらに9月になると次のツアーがスタート。

2005年9月1日 - 12月24日 Space of Hip-Pop〜namie amuro tour 2005〜
35公演

2006年8月13日 - 11月23日 namie amuro BEST tour"Live Style 2006"
23公演

2007年8月18日 - 12月25日 namie amuro PLAY tour 2007
53公演

2007年
m-flo loves 安室奈美恵として「Luvotomy」で参加

グローバルアルバム「PLAY」日本、韓国、中国、台湾 同時発売

30歳の安室奈美恵が表現するカッコイイ大人のR&Bダンススタイルは、「with SUPER MONKEY'S」時代のアイドル・イメージ引きずって来た日本人より、むしろ韓国・香港・台湾の3か国で素直に受け入れられたのではないか。
現在30代以上のアジア各国の女性アーティストは絶対影響受けてると思う!

2008年
12月 アルバム「PAST < FUTURE」をリリース。
アジア5ヶ国・地域での首位獲得の快挙!

2008年10/25 - 2009年7/12 namie amuro BEST FICTION TOUR 2008-2009 全64公演


「機動戦士ガンダム」コラボもやってます!


2010年 9か月全80公演!
4月3日 - 12月15日 namie amuro PAST < FUTURE TOUR 2010
内海外公演 06/20-21 台北アリーナ、07/11-12 上海大舞台

女性ソロアーティストとしては、史上初過去最多!途中、東京公演では、声帯炎回復の為中止振替された。それはそうなるよ。
今のアーティスト比較しても、自前の劇場公演を持つAKBグループと昼夜公演をする演歌系歌手は別として、年間50回以上のコンサートをする人は稀。1回2時間以上の全力パフォーマンスバンド系でも全国40回が限界。成功したソロアーティストの公演数としては異常に多い!

しかし、安室奈美恵はその後、2016年に100公演のツアーを達成している。安室の場合、2012年に5大ドームツアーをやっているが、コンサートホールにこだわって全国を回っている。ドームやスタジアムはどうしてもファンとの距離が遠くなり、音響も良くない。安室にとって、大量の露出が図れるテレビ出演や、収入の良いCM出演などより、ライブを一番の場所と考えていたことが分かる。

2011年
4月ベストコラボレーションアルバム「Checkmate!」(日本、韓国、台湾、香港同時発売)。3月の震災とプロモーション時期が重なってしまい、ファン以外の人に届いてないような感じだが、コラボすることで安室奈美恵のキャラクターと個性がより分かる。
どメジャーでありながらかっこよくて、曲センスバリバリ。これは名盤!

韓国のAFTERSCHOOLを率いた「make it happen」のPVを今見ると、1曲だけのコラボとしては惜しく、この「安室奈美恵 feat. AFTERSCHOOL」の活動が、今隆盛のPRODUCE方式のように1年間の期間限定で日韓活動していれば大いにアリだったのではないかと思います。

90年代の初期安室奈美恵に影響を受けた元祖アムラー世代と、2010年以降のガールクラッシュKPOPファンダムを融合出来ていれば、音楽マーケットが形成され、新しいグローバルPOPスターが登場することも出来たのではと夢想してしまいます。

上記のように韓国ではこの2010年前後に事務所各社が、ターゲットやコンセプト被り関係なくどんどんガールズグループをデビューさせて、競争、洗練させていったことで少女時代、2ne1、4minutesなどが登場し、結果マーケットがアイドルPOP、HIPHOP、デジタルダンスミュージックジャンルで横断的に広がったことを考えると、日本で安室奈美恵だけが孤高の存在として、1ジャンルで戦っていたような印象がします。
もちろん、エイベックスもこのジャンルに何度も挑戦していたのですが、テレビに代表される日本の大衆、一般マーケットに広く受け入れられることが無かったように思います。(アイドル市場がAKB隆盛になっていったことも一因としてあると思います)

ライバルがいなかったことでダンスミュージックがシーンとして継続せず、安室奈美恵の消耗を速めてしまったのではと勝手に思ってます。

では「Checkmate!」からかっこいいPVの紹介です。

安室奈美恵 feat. AI & 土屋アンナ

この時代の方が日本かっこ良かったやん!ってなりません?


安室奈美恵 feat. AFTERSCHOOL

安室奈美恵&KPOPの融合がもっと続いていたら、feat. BoA、東方神起…SMタウンにゲスト出演とか……夢想します。この時代のエイベックス安室&m-flowチームは優秀だったと思います!1曲だけ、安室さんじゃない曲。ご紹介!

M-Flo Loves BoA - The Love Bug (2005年武道館)


そして
feat. 山下智久

ジャニーズ事務所と夢のコラボがこの時期に実現できていたというのはすごい!原盤権の関係でCDに入ってないのが悲しい。


feat. 川畑要(CHEMISTRY)

2000年代前半の功労者コンビですね!
CHEMISTRYが、上質なR&Bを日本で爆発的にヒットさせたのは実は凄かった!結局、スタイルやファッションだけが広まって、実は音楽的に保守的なヤンキー層とイメージ一体化してしまったのが残念。
その後のLDH系のE-girlsもそうなんですが、もっとグローバルな売り方が出来てればなぁと思います。もし仮にですよ、安室さんプロデュースで、アジアツアーとか一緒に行けてたら全然違ったと思うんですよ。

2012年
アルバム『Uncontrolled』で日本、台湾、香港、韓国、シンガポールの計5ヶ国で前作『PAST < FUTURE』に引き続き1位を獲得している。

2013年
7月オリジナルアルバム『FEEL』をリリース
アジアNo1になっても踊る!踊る!歌う!歌う!攻める!攻める!

2014年
個人レーベルDimension Point設立。

平井堅「グロテスク feat. 安室奈美恵」

このカッコよさ、今でも通じるでしょ!

台湾のジョリン・ツァイ(蔡依林)とのコラボ「I'm Not Yours」。

この堂々とした感じが誇らしい!
存在そのものが安室奈美恵という一つのジャンルになりつつある!

2015年
デビュー以来長年所属のライジングプロダクションを退社して、Dimension Pointでようやくセルフマネージメント状態へ

そして、超名作マスターピース『genic』発表!
全曲新曲、11曲英語詞、ノンタイアップ。独自志向、音楽指向、つまりそれがグローバルな流れ!持ってない人は必ず買ったほうがいいです!


このアルバムもさらにキレッキレッでバリバリにかっこいいのですが、その後2017年に引退発表。これが実質スタジオラストアルバム。
奇しくも同じく時代を作って来たSMAPは前年の2016年12月に解散を発表。SMAPは北京で1回4万人のコンサートを実現し、2012年のコンサートでは少女時代がゲスト参加するなど、グローバル展開が見えていただけに誠に残念。
 この同時期に2大スターを失ったJPOP界は、その後長く喪失感と後味の悪さを残すのであった。
(宇多田ヒカルは2010~2015年は活動休止し、その後は無理なマネージメントをせず、今もコンスタントに秀作を発表し続けている)

安室奈美恵は、ファンとのお別れとして全国ツアー後、2018年9月16日にキレイさっぱり、エンタメ界自体から引退してしまった。

安室HP


 最後の年も、日本のマスメディアはスローテンポでキャラクターの見えにくいバラードばっかり流すので、大御所の引退という感じになってしまった。
 安室奈美恵の引退に際して、BoAが自身のInstagramに掲載したメッセージをご紹介します。
「直接には一言も言うことができませんでしたが、私の幼い時の偶像だったし、今後も私の記憶の中では先輩の素敵なステージがずっと思い出されると思います。これまでたくさん学ぶことができたステージを見せてくださって、ありがとうございます。人間安室奈美恵先輩の人生を応援します!!  先輩、本当に愛してます!! 」
 2001年に日本でデビューし、同じエイベックスに所属し、今も韓国でSMエンターテインメントのソロアーティストとして活動するBoAは本当の後輩だと思います。1度くらいコラボして欲しかった!

アムロ&BOA


 ここまで見てきた人は分かると思うんですが、安室奈美恵はずっとJPOPを引っ張ってきた人で、大衆を相手にする故にその分、摩擦や、不信感や、疲労感が激しかったと思うんですよ。

 この後味の悪さをちゃんと検証しておかないと、今後こういう人が出て来たときにユーザーとしての振舞いを間違えかねないと思い。今回の20年間に及ぶ振り返りを私も勉強して、まとめてみました。

いかがだったでしょうか?
もしご要望がありましたら、次回

安室奈美恵も前線に立っていたアジアダンスミュージック界の潮流が、日本から韓国に移り、やがて逆流して2010年に日本に大KPOPブームを巻き起こした。そしてその後の停滞の壁をKPOP界はいかに乗り越えてきたを検証してみたいと思いますので、ご感想お待ちしております!そもそもアイドルビジネスって、どういう事なのかを考えて見ます。



ドラマ企画100本目指します!