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息子の21歳の誕生日に爆弾宣言!?隠岐の島にインターナショナルスクールを作るからね、 Birthday message for you❤️

今日は息子の21歳の誕生日だ。私は22年前の今日親となった。不妊治療の末、やっと授かった子。そして、高齢出産や体外受精の影響か、常位胎盤早期剥離となり、母子ともが生きていたことが奇跡でもあったことを思い出した。結婚式の次に、自分が世界の主人公のような経験をした。しかし、それはスポットライトではなく、手術の際の無影灯であったことは言うまでもない。全身麻酔が効くまでの数秒は自分が「白い巨塔」に出ている俳優のような気がした。今思う、生きていて良かった。2人とも。

我が家には息子の生まれたての写真がない、ビデオもない。2002年11月1日の予定日の2ヶ月早い8月31日に生まれた。その1ヶ月前に大量出血で緊急入院してしまったため、新しく買うつもりでいたカメラもビデオもまだ手元にはなかったからだ。当時の画素数の少ないケータイ電話の写真が最初に撮った写真だ。もうどこにあるかもわからない。普通の家にある、生まれたての写真がないことで、息子が「自分は本当にこの家の子どもだろうか?」と心配するのではないかと思ったこともあった。全くの杞憂だった以上に、生まれたての写真を見たがる子どもには育たなかった。それは普通のことかもしれないが、親として勝手に心配していた。(親ってそんなもの。心配しすぎ、手を出しすぎる。)

高校は3校行きました。日本人には珍しい人生。小学校も中学校も何回呼び出されたか。今では良い思い出です。「この子は何があっても生きていけますよ」と小学校の先生から言われたことを救いに私は生きていました。叱られに行ったのに、褒められたみたいな状況。今思えば不思議。

私は富山県出身である。なので、富山に里帰りをして出産するつもりで、当時富山県立中央病院に妊婦として通院していた義妹(弟の配偶者)に出産の予約をお願いしたところ「今、少子化でいつきてもらっても出産できるほどだから、予約は必要ないですよ」と言われたと聞いて驚いた。が、その当時、20年後にここまでの少子化になるとは思っていなかった。この先の20年後は年間出生数が30万人になっているんじゃないかと真面目に思う。心配はしていない。自分のできることは、今生きている人が、一人ひとりもっと幸せになれることをやっていきたいから。それが私の、今の生きる道だ。

さて、自宅近辺の産婦人科クリニックで入院中の出血で、神奈川県立子ども医療センターに転送されることになった。次の病院が見つかるまで1時間以上かかった。しかし、その時、まさかお腹の中の子どもの呼吸が止まることがあるなんて思ってもいなかった。出血をしていたがどこも全く痛くなかったから、そんな大事(オオゴト)になっていることに気がつかなかった。これまであまり言わなかったのだが、なんで新たな出血を呼んでしまったか。実は摘便がきっかけだった。食べられない、動かない、絶対安静で体は痩せる一方な上に全く便意がない。それがあまりにも気持ち悪いと言ったら、看護師さんが「それでは容態も安定しているから、指で便をかき出しましょうか?」と提案してくださり、「お願いします」と言ったことがことの始まりだった。もそもその日に出血しなかったら、彼は私のお腹の中にあと2ヶ月いる予定だった。が、22年前の今日、私のお腹から出てきたことで今の私たちの人生があるなら、これで良かったのだと思う。笑い話が一つある。当時出産の立ち会いをするつもりだった夫は、こんな緊急時にもかかわらず医師に「出産の立ち会いができますか」と聞いたそうだ。医師は言葉が出なかった、と後から聞いた。そんな質問ができる彼もすごいと思った。

私が手術台に上がって数分後に息子は生まれた。22年後の今はオーストラリアのキャンベラ で大学生をしている。彼の人生がどうなっていくのかは私は知らない。ただ、とても楽しみにしている。彼が生きていることに、私が伴走されている。彼の成長が私が変態することをサポートしてくれている。(私が蝶になるか、バッタになるか、何かのサナギになったところで変態が止まるかは私にもわからない。しかしそれも楽しみだ。)

離れて暮らしていても、遠くにいる感じがしないのはインターネットのおかげだ。どんな時でも動画上で会話ができる。そして全く心配していないのは、私自身が適度に忙しくしているからだと思う。彼の足を引っ張ってはいけないと思うと言うよりは、彼の人生のヒントになる生き方をしたいと思っている。どちらかと言うと、自分の息子だけでなく、日本の若者たちのヒントになりたい。参考にはなれない。英語も話せないし、いろんな失敗はするし、言っていたことは変わるし、怒りまくることもある。間違うことなんてしょっちゅうだ。けど、私自身が人間らしく、自分らしく生きていることが息子にとっても、私の周りの人たちにとってもきっとなんらかのヒントになると思っている。だから、堂々と失敗もできるし、失言もできる。(皆さん、許してね!)

私も数年前までは、どこの親とも同じように彼には「良い大学に行って、良い企業に就職して、健やかな人生を過ごしてほしい」と思っていた。しかし、それにはハードルがいくつもあったし、棒高跳びほどの高さのハードルもあった。親としてそれがわかっていたので、彼らしく生きていける伴走をしてきた。(それがインターナショナルスクールと海外大学進学だった。なので、私は誰もが行けるインターナショナルスクールを作りたいのだ。)しかし、彼の人生に関わりながら「親が楽しく生きていないと、子どもに影響するだろうな」と思うことがあった。家族や家庭、地域の状況でいろんな人の生きる環境は違う。家族を含めた周りの方々に助けられながら生きている今、大人が一生懸命、楽しく生きられる社会じゃないと子どもは増えないと思っている。

この先、どんなことが起きるかわからないけど、自分らしく生きる努力をしていくことを彼に伝えたいと思ってnoteに書いた。こんなこと言いながら「結局できなかったね」ってことになるかもしれない。それでも良い。

息子のおかげで念願のブータンに招待されました。生きている間に全ての国を訪問したい私は1歳でも若いうちに、珍しい国(笑)に行きたかったのです。全ての予定をキャンセルして行きました、、、と言いたいのですが、とても暇でもありました。ここで見栄をはっても仕方がない。

富山のど田舎の公立中学生だった時、給食委員長に立候補して落選した。その頃は、給食委員長くらいなら当選できると思う、と思っていたと思う。しかしあえなく落選。同級生の清水君に「お前、恥ずかしーなー、落選して」と言われたから「立候補もしていないオマエの方がよっぽど恥ずかしいんじゃないの?」と言い返した。それは本心ではなかった。自分の恥ずかしさをごまかすために、相手を蹴落とした。彼には悪いことをした。私は恥ずかしかったです。そして、これからは堂々と「恥ずかしかった」と口にできる人になりたいと思うのでした。ごめんなさい。

息子には、失敗しても良いから、誰かを傷つけないのであれば、どんどんいろんなことをやってほしいと伝えたい。私もそうするつもりだから。ただし、大学卒業後はお金は自分で稼いでね。私の貯金は増えないのだから!そこだけは、ヨロシク!

少年野球チームも何回変わったか。みんなと同じことができなかったからやめてほしいと言われたり。チーム自体がなくなってしまったり。骨折して試合に出られなかったり。小1から中3までクラブチームで野球をしていたのですが、ここでもトラブル続出。しかし、いつも彼の周りには友達がたくさんいました。日本を離れても平気で生きていける素養は小さい頃から持っていた様子。

どうしてこんなnoteを書きたくなったのかと言うと、先週の隠岐の島の島流しキャンプのコンサートで一般社団法人アナザーステージの理事長のなべさんが、挨拶のはずが泣きながら「アンナ(娘)に会いたい」とシャウトしたのが羨ましかった。なので、私はnoteでシャウト!


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