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村上春樹の乗り上げた暗礁から「降りる」にはーー自己ではなく世界を愛すること、そして「老い」の問題

京都大学の小島基洋氏からの誘いで、「村上春樹フォーラム」なるものに出席してきた。2022年に出版した『砂漠と異人たち』の半分は実は村上春樹論なのだけれど、それがあまり村上春樹研究では共有されていないようで、これを機会にその議論を共有したい、というありがたい申し出だった(小島さん、ありがとうございました!)。この本は自分では気に入っているのだけれど、僕の本の中ではそれほど売れた方ではなく、あまり内容についてフィードバックをもらったこともないので、余計にそう感じた。

フォーラムはとても充実していたのだけど、一方でものすごく理不尽な中傷を受けたので、ここに記しておくことにする。

フォーラムに当たって主宰の小島基洋氏から聞いたのだが、前々回の登壇者の横道誠氏から、僕はかなり人格批難的な罵倒を受けている。要はアイドルオタクの僕が、村上春樹の性搾取を批判するな、という批判なのだが彼は僕の書いたアイドル論を少しでも読んだのかと思う。僕がここで「アイドルとの疑似恋愛を動機に社会にコミットしよう」とか、「アイドルを応援することで男性性を確認しよう」といった、対幻想を根拠に社会にコミットするべきだという(それこそ村上春樹的な)社会論を展開していたなら言われても仕方ないと思うが、当然だが僕はまったくそういう主張はしていない(というか、僕は一貫して性的なものを動機にすることに批判的なので、避けてきた)。

僕のアイドル論は単にSNS的な無関係の人間に「かかわる」こと、つまり「推す」的な関係のポテンシャルを探るもので、そしてその目論見は(当時SNSを過大評価していたのと同じように)失敗しているのだが、横道の記述ではそういった僕の主張の内容には踏み込むことなく、アイドル(といってもいろいろなかたちやアプローチがあると思うのだが)を肯定的に論じていた、というだけで人格に対する罵倒が重ねられている。

さらに決定的にひどいのが、横道が特に根拠を挙げることもなく僕が「実写モノ(特撮、アイドル、テレビドラマ)を持ち上げ、マンガ、アニメなどを相対的に下に置き批判している」という僕が一度も書いたことも言ったことも考えたこともない主張を「ということだろう」と勝手に決めつけて(捏造して)それを得意げに攻撃していることだ。

さすがにこれはちょっと腹に据えかねている。僕の仕事歴を少し参照すれば、僕が実写モノ(特撮、アイドル、テレビドラマ)とマンガ、アニメ、つまり三次元と二次元を対比して前者を持ち上げているなんてことは、まったくないことは分かると思うのだが(僕の代表作『母性のディストピア』はアニメ論だ)、この人は具体的に出典も示さず僕が「三次元>二次元」と主張しているとでっちあげて、それを攻撃している。

まあ「宇野をやっつけたかった」のかもしれないが、あまりにアンフェアなやり方だと思う。そりゃあ、勝てるだろう。あなたが捏造した宇野の主張なのだから、あなたが論破し放題だ。

こういう人が大学というビニールハウスの中で保護されて「研究」しているのかと思うと、本当にウンザリする(このようなデタラメが許されるのが日本のアカデミアなのだろうか。さすがにアウトだと思うのだが……)。

とりあえずこの横道という人は偉そうなことを言う前に、まず他人を汚い手を使って無理やり貶めて、自分を賢く見せるやり口を反省すべきだと思う。僕は大学にも、論壇の派閥にも属していなくて殴りやすい対象なのだと思うが、さすがにこのやり口は汚すぎる。しらべると最近はケアの文脈でも「活躍」している人らしいが、まずは自分の顔を鏡に映して見て、他者を尊重するとはどういうことかを考え、自分のセコさと陰湿さに向き合ったら良いと思う。

こんなふうに、シマを荒らすなとばかりにアカデミズムから言っても書いてもいないことで責められるなら、誰も在野の書き手は文学について書く気がなくなると思う(少なくとも僕は心底うんざりした)……

そして日本の国文学の研究者のみなさんには、少しは自分たちが権力者であるという自覚をもって、こうしたアンフェアな批判(実質的な中傷)がどれだけ、市井の書き手たちへの暴力として機能するのか、しっかり考えてもらいたいと思う。そして最低限の自浄作用を期待したい。

もっとも「壁と卵なら卵の側に立つ」と人前では述べながら、大事なところではしっかり「卵」を潰し回って「壁」のご機嫌を取るのが、「上手な生き方」なのかもしれないけれども(僕は、軽蔑しか感じないが)。

【横道誠問題の追記】

読者からの指摘があったのだが、この人は普通に研究者としてかなりデタラメな人らしい。


凡ミスはもちろん、攻撃したいという気持ちが先走り、よく読まずに反論してむしろ相手の主張を裏付けてしまう、というヘマはよくあると思う。

しかし以下の指摘のように、「失礼を働くと仕事に差し支えある研究者仲間は尊重するが、市井の書き手にはでっちあげも誹謗中傷もためらわず、罵倒文句を書き連ねる」のはアカデミズムの権威を用いたハラスメント以外何ものでもないし、そもそも人としてどうなんだろう、と思わなくもない。(芸能界と並んで、アカデミズムにも権威に守られた「世間」のなかで「なんでもあり」になっている側面があると思う。アカハラも多いし……。)

ちなみに関連してこんな問題も指摘されていた。

しかも、これらの問題行動の指摘を受けるとブロックして逃亡するなど、かなり研究者としての倫理に欠けるような気がするのだが……

(追記ここまで)

さて、さすがにひどいなと思って長くなったが、本題に入ろうと思う。すっかり忘れてしまうところだったが、この文章はフォーラムを通して僕の考えたこと、つまり『続・砂漠と異人たち』的な思考メモだ。

村上春樹はいま、作家として大きな暗礁に乗り上げている。そしてそこから「降りる」ための想像力は彼の問題を超えて、僕たち一人ひとりの問題にもかかわっている。結論から述べてしまうと、僕はこの「降りる」ために必要なのは「自己」愛ではなく「世界」の側に関心を移すことと、「老い」を肯定することだと思ったのだ。

まず発見として挙げられるのが、ディスカッションで小島さんと話していて気がついたのだけれど、どうやら世界には村上春樹の性愛観を、むしろリベラルにとらえる、という考え方がある程度浸透しているらしいのだ。村上は80年代からフェミニズム的に批判されてきた作家で、それは前提として分析をしていく……といったところ「から」僕ははじめたところがあり、小島さんの話はそういう考え方もあるのか、と単純に驚いた。

どういうことかというと、例えば『ねじまき鳥クロニクル』の主人(岡田亨)とその妻(久美子)の関係に僕は性搾取の構造を指摘している。久美子は岡田亨を強く必要とし、岡田亨は久美子を救い出すという使命感をいだき、そして彼女を救うことと社会的な悪を倒すことが物語の中で結び付けられる(綿矢ノボルの殺害)。こうして岡田亨は妻を救うという大義名分を得て正義の暴力(村上春樹にとって、正義と暴力は深く結びついている)を振るい、社会的な「コミットメント」を果たす。

これだけでも、男性主人公の暴力を正当化するために救われるべきヒロインを配置する……といった構造が指摘できると思うのだが、加えて岡田亨の綿矢ノボルの「殺害」は夢の中での出来事であり、実際に彼を殺害し(手を汚し)て罪に問われ、服役するのは久美子なのだ。要するに「コミットメント」のコストを妻に支払わせている。暴力を行使する大義名分を与えるために「傷ついている妻」が用意され男は自己実現の快楽を手にし、その妻が実際に手を汚す役割を引き受け、罪を償うために服役する……僕はここに村上の性搾取的な構造を指摘しているのだけれど、小島さんは違う読み方をしているというのだ。

正確には小島さんは自身の意見というよりは、僕の村上論へのありがちな反発として例示したのだけど、久美子が自立した女性であること(むしろ岡田亨が「主夫」である)や、彼女が物語の中で岡田亨を置いて失踪していることに注目する。つまり少なくとも久美子は岡田亨に虐げられている存在ではない、ということだ。

たしかにここだけを切り取るとそう考えられる。なるほどな、と思った。

しかしこれは物語の表層だけを解釈しているにすぎないと思う。たとえば、日本には「原発ムラ」みたいなものがあって、地元の住民を札束で殴って黙らせるために大量の「カネ」が国から間接的に落ちてきている。そこの住民の多くは、やがて前提として原発の再稼働に「反対」しなくなる。自ら進んで、再稼働を推進する候補に投票するようになる。そしてここでクイズだ。このとき国家、もしくは◯◯電力はA町の人々の精神的な自由を搾取して「いない」のだろうか。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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