見出し画像

『葬送のフリーレン』と〈母親〉の問題

実のところ僕は『葬送のフリーレン』を原作、アニメともに続きを楽しみにしているのだが、最近この作品の「良さ」が良くわからない、という声が結構多いことを知った。僕としてはこの反応は意外だったのだけれども、この「良さ」を言葉にしにくいというのは確かにそうかもしれない。アニメ版の魅力をとりあえず語るのは割と簡単で、多くの人々が指摘しているように演出が丁寧で細かく、それをたっぷりと尺を取って見せる贅沢さが際立っている。しかしこれは原作の「良さ」を前提にした分析で、『葬送のフリーレン』という作品の「良さ」そのものにアプローチしたものではないだろう。

では、何が『葬送のフリーレン』という作品の魅力の中核にあるものなのだろうか。繰り返すがこれがなかなか難しい。この作品は借り物だらけだ。まず世界観がいわゆる「JRPG」の最小公倍数のようなもので、僕は子供の頃からこれが苦手だったのもあって、この点についてはこの作品を楽しむための大きなハードルになっていた(「勇者」という発想がもう、許せない)。

そしていま(2024年1月末)テレビアニメ版で展開中の「一級魔法使い試験編」は『HUNTER×HUNTER』の「ハンター試験」ほぼそのままで、つまりこの作品はエピソードのレベルでも「借り物」がすごく多い。よく魅力として言及されるのはハートフルな物語展開で、これはたしかにこの作品の個性だと思うのだけれど、それはこのJRPG的な世界観で人情話を全面化していること自体のそこそこのユニークさ、程度のもので、具体的にはどのエピソードをとってもそれほどオリジナリティがあるとは言えないだろう。要所要所で挿入されるバトル展開も、むしろこの作者が従来の少年漫画の要素をうまくリミックスして取り入れていることを証明している(そのためフリーレンが実はその絶大な力で裏で工作していた、という「勝ちパターン」が連発されることになる)。

では、どこにこの作品の本当の個性があるのか。僕の判断は、主人公であるフリーレンの人物造形と、彼女の指導する二人の若者(フェルンとシュタルク)との関係性にあるのでは、というものだ。

ここから先は

2,095字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。