人間は「対幻想」から「自立」できるかという問題を戦後史から考える
気がつけば5月も半ばが近くなってしまった……。明後日5.15は僕たちPLANETSから三宅香帆さんの『娘が母を殺すには』が発売になる。本の内容については、下記の大垣書店のイベントなど出版後にいくつか触れる機会があると思うので、そちらで詳しくコメントしようと思うのだけれど、今日は連休中にこのゲラを読みながら考えたことを書いてみたい。
要するに、この本は母娘間の共依存特有の問題をえぐり出し、その相対化の可能性をフィクションの想像力を駆使して考えている、という内容のものだ。
少しだけ裏話をすると、執筆中に僕が編集長として行ったアドバイスは究極的には1つで、問題の解を出すのではなく問題を再設定する批評のほうが、よい批評ではないかということだ。つまならい批評はレトリックを駆使して、利他や共生の大切さといった「自明のこと」を説き正しい「解」として提示する。それは正しいけれど、つまらない。僕は世の中に浸透し、大きな力を長期的に発する批評とは、その問題の発生する前提条件を問いなおし、解体する力のあるものだと思う。要するに、なぜ採用がうまくいかないのかを考えてウェブサイトの記述を改善するよりも、そもそも増員が必要になる背景にメスを入れるほうが本質的なアプローチになる、ということだ。
さて、その上で今日僕が考えてみたいのは対幻想の問題だ。
僕は人間は自己幻想や共同幻想から自由ではないのと同じように、対幻想からも自由になれるとは考えていない。共同幻想を対幻想で相対化するという時代の「気分」を共有しながらも吉本隆明的な戦後中流的な家族幻想から村上春樹は「やれやれ」と距離を置き、上野千鶴子は村上的な男性ナルシシズムのための対幻想を「つまらない」「家父長制を延命させるだけ」と一蹴し、宮台真司は上野千鶴子の家族形成をそれ未満の「性愛」に留める戦略の脆さを意識し、その性愛の過程である種の変態性を身につけることによる人間の世界からの逸脱を説いた、というのが僕の(数行にまとめるためにかなり単純化した)理解だ。そして宮台真司の帯でデビューした僕は彼とは異なり性愛を経由しない変態性の獲得ーー変身ーーというものについて考えてきた(『リトル・ピープルの時代』から『ひとりあそびの教科書』まで)。
僕がいわゆる「セカイ系」のポルノゲームやライトノベルのメンタリティに批判的だったのは、言い換えればそれらが村上春樹以前にこの問題を後退させる想像力でしかないからだ。しかし問題は既に、別の次元に移行しているのではないか、と僕はずっと考えてきたのだ。
上野ー宮台路線は、吉本ー村上的な「所有」の対幻想を、「関係性」の対幻想の立場から批判する。僕も「基本的には」この立場からものを考えている。しかし、その一方で、対幻想に支えられるものとそうではないものの境界線について考えるようにもなっていった。共同幻想を対幻想で相対化するという「吉本的」なコンセプト自体の限界を感じ始めていた、と言い換えてもいい。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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