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『勇気爆発バーンブレイバーン』と「(溺愛彼氏としての)アメリカ」の問題

なんだかんだで、僕は今期のテレビアニメでは『勇気爆発バーンブレイバーン』を楽しみに見ていた(来週には座談会も配信します)。

しかし楽しみに見ていた、と感想を書いてしまうのは簡単なのだけれど、この「楽しみ」のメカニズムを考えるとそれはかなり複雑なものになってしまう。

端的に言えば、これはとても「老いた」作品だというのが僕の結論だ。誤解しないでほしいが、このような作品は「おじさん」しか喜ばないからダメだとか主張する気もないし、実際にこれを喜んで見ている若い人がいて、そのことをとても嬉しそうに紹介するような仕事にも僕は興味がない。僕がこの作品を「老いた」と表現したのは、要するにそのメタ的な視点の「織り込まれかた」の問題だ。これは少し前に取り上げた映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の問題とも通じている。

それは、このようにすべてを「ネタ」的な「出落ち」として処理してしまう作劇の態度で、得られるものと失うものがはっきりと存在していて、そのことをどう評価するか、という問題なのだ。

もちろん、この作品はそのパロディ性を十二分に押し出している。監督の大張正己は80年代の、それも半ば以降の斜陽の分野になりかけたロボットアニメで名を馳せたクリエイターであり、その大張が80年代の(あまり好きな表現ではないが、近年でいうところの)「リアルロボットアニメ」の世界観に90年代の「勇者シリーズ」を彷彿させる主役ロボット(ブレイバーン)が介入してきて……という作品を手掛けること自体が、本作が前提としてパロディとして企画されていることを意味している。

しかし、本作が元ネタを知らないと楽しめない二次創作的な作品かと言われると、それも違う。本作のコンセプトは80年代のサンライズ的な「リアルロボットアニメ」的なものと、90年代の「勇者シリーズ」的なものとをともに戯画化した上で併置し、2つの異なる世界観が同居することの「ズレ」の生む笑いや超展開を見せることにある。このとき特に後者は「勇者シリーズ」のヒーローロボット(意思を持ったAIやロボットに見える宇宙人として設定されることが多い)の主人公の少年への愛情が大人目線から観ると「気持ち悪く」映ってしまうことが最大限に誇張されている。

こうしてそれが「ネタ」であることが繰り返し宣言されながら、本作は異星人からの侵略に地球人類が一致団結して立ち向かうという「ベタ」な物語が展開する。このように「ネタ」を経由して「ベタ」に泣かせる作法は、それほど珍しいものではない。むしろオタク系文化の中ではありふれたもので、ゼロ年代前半の「電車男」ブームの頃にはすっかり定着していた。つまりここでは、その幼児性や薄っぺらさを自分たちは十分理解しているのだというエクスキューズがまず先にあり、その上で単純化された正義や同胞愛やナショナリズムが「熱く」叫ばれる。もちろん、ここでの「本音」は後者にある。ここで作り手たちが訴えたいのは、明らかに単純化された「ベタな」正義や同胞愛やナショナリズムだ。しかし20世紀後半以降の世界を生きる人間たちは、ポストモダン的な相対化の視線を「なかったこと」にはできずに、このような先制防御が必要になる。この前者のエクスキューズが、後者のイデオロギーを「それが何の留保もなく追求できるものではないと分かった上で、愛している」のだという態度表明として機能するとき、そしてそれが「茶化し」や「冷笑」ではなく、「共感」を伴った「笑い」として描かれるとき、両者は何の矛盾もなく両立するのだ。

ただ僕はこの手法が若い頃から苦手で、たとえば『機動戦艦ナデシコ』の劇中劇『ゲキ・ガンガー3』をめぐる展開のサムさは当時本当に辛いな、と思った。それは「今さら(1996年)」70年代ロボットアニメ的な勧善懲悪の世界観やその幼児的な正義を相対化して(その上で時にはそう、捨てたものではないと愛して見せて)ドヤ顔する」というレベルの低さに対する呆れ、のようなものだ。70年代ロボットアニメ的な勧善懲悪の相対化と再評価、つまりポストモダン的な相対主義を前提とした社会的コミットの再構築など、当時ですら既に「終わった」問題で(狭いアニメ業界の一部では違ったのかもしれないが)、当時は既にその上であたらしく発生した問題への対応を考える時代になっていた。国内で言えば「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が問題化し始めた頃で、むしろ相対主義の前提化が「なんでもあり」の物語回帰を生む、さて、どうしたものか……というフェーズに移行していた。そこで70年代的な「熱血」を浅くイジってみせるアプローチは、少なくとも僕にはものすごく低く設定したハードルを余裕を持って飛んでドヤ顔するみっともなさしか感じなかった。

その延長で、僕は『キルラキル』や『プロメア』の中島かずき的なドラマツルギーもやっぱり苦手だ。これらの作品の根底をなしている「やっぱり〈燃え〉という人間の快楽原則に従ったものを大事にしたい」という気持ちはよく分かるのだけれど、それを過剰に盛ることで「だから難しいことは考えたくない」という拗ねた自意識を覆い隠してしまおう、という無意識の欲望が垣間見えてしまって、やっぱり冷めてしまうのだ。(逆にそういった自意識を、あの自己目的化した過剰さに感じないとしたら、そのほうが不自然だとすら思う)。

この『ブレイバーン』はこうしたオタク系文化の「語り口」が定着した上で出現している。そしてその結果として、あまり直視したくないものがだだ漏れしてしまっているように僕には思う。それは端的に言えば「アメリカの影」の問題だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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