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事物を「ひとり」で受け止めるとはどういうことか

 ここ最近、考えていることがある。それは、事物を「ひとり」で受け止めるとはどういうことか、ということだ。

 僕がこういうことを考えるようになったきっかけは、意外と自分の頭と身体で事物を受け止めている人は少ないのではないか、と思うことがこの仕事をする上でとても多かったからだ。

 たとえば、僕はキャリアをサブカルチャーの批評から出発している。これは「好きなもの」を語る仕事のはずだ。しかし実際にこの「業界」にかかわってみてすごく驚いたのだけど、「界隈」の評価をそのままインストールして自分の意見を持っていない人がすごく多いのだ。もちろん、どのような世界にも「はやりすたり」というものはあるので、出くわす人がことごとく今流行っている○○のファンである……くらいのことでは驚かないのだけど、その評価の基準や評価を述べるときの論理までことごとく似通っていたのだ。

 つまり、サブカルチャーという「好きなもの」を扱うことで成立しているような世界ですら、作品を受け止める快楽よりも、「みんな」と同じものを担いで「みんなと同じ」安心感を消費する快楽のほうが大きく、その快楽に無自覚に浸っている人がとても、とても多かったのだ。だからイベントやそのあとの打ち上げに出れば、みんな同じ人や作品を同じ論理で褒めて/貶していたし、ブログ(当時)のホットエントリーも似たようなものだった。この人たちは、「界隈」の空気しか読んでいなくて、まったく「作品」を読んでいないと僕は強く感じた。この傾向はSNSの普及によって、一般読者や観客にまで及ぶようになったと思う。正確には、作品を通じて共同性を確認する快楽を得るハードルが飛躍的に下がり、「コスパ」も良くなったことで、より広く普及したのだ。

 だから、僕はあえて「ひとり」で「も」事物に接する時間を大切にしたいと考えるようになった。その考えをティーンの読者に向けてまとめたのが『ひとりあそびの教科書』という本なのだけれど、これは同時代を生きる大人たちへのメッセージでもあるのだ。

 さて、その上で今日考えてみたいのは、事物についてのコミュニケーション(共同性)ではなく事物そのものを受け止めた上で、他の人間とつながるとはどういうことか、ということだ。

 それは僕がものを書く理由でもある。僕がある本を書いたとする。僕は基本的に「界隈」の空気にチューニングしたものを書かない。たとえば、富野由悠季については『ブレンパワード』以降作風がポジティブなものに変化し、作家として、演出家としてさらに円熟したーーというファンコニュニティでの「物語」がコンセンサスとして成立している。しかし、これはほとんど作品を知的に分析していない、極度に単純化された物語にしか僕には思えない。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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