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落合陽一の提唱する「テクノ民藝」から、「評価」でも「承認」でもない人間を支える回路を考える思考実験

 今日も前回の続きだ。

 ここで要するに僕は以下のような話をした。

 (ハンナ・アーレントの言う)人間の諸活動、つまり「労働(labor)」、「制作(work)」、「行為(Acition)」のうち、「労働(labor)」、と「行為(Acition)」は情報技術の支援を強力に得て、かつてない簡易さで人間のアイデンティティを形成する力を発揮するようになっている。しかし、「制作(work)」は相対的に置き去りにされているのではないか。

 つまり「労働(labor)」とは、今日においては「個人」として経済的に自立するという形でその人のアイデンティティを形成し得る。この現代日本でも多くの「社畜」が意識の高い自立したビジネスマンに(究極的には起業家に)憧れをつのらせたり、コンプレックスを爆発させて執拗に攻撃したりするのはこのためだ。
 また、「行為(Acition)」もSNSプラットフォームの出現で圧倒的に低コストで即時的なものになった。今日において「何も無い」人間が手っ取り早く承認を獲得する方法は、とりあえず特定の政治勢力(できれば極右か極左)に加担して「敵」を口汚く罵ることだ。そうするとたちまち「味方」が寄ってきて、短期間で忘れさられるかもしれないが、あなたに「承認」を与えてくれるだろう。

 では「制作(work)」はどうだろうか。事物を「つくる」快楽は確実に存在するし、自分が欲しいものを(誰かがつくってくれないので)自分で「つくる」ことで、その切実な要求を満たすことの満足感も大きい。
 しかしアイデンティティの形成に寄与するのは、制作した事物が世界をほんの少しでも、しかし確実に「変化」させたという実感だろう。GitHubのようなもの、あるいはインターネットそのものが事物を「つくる」ハードルを大きく下げたことは間違いない。しかしその制作した事物が世界を変えたことを「実感」させるための回路がまだ弱い。
 あなたがもし、ジャングルジムをつくり近所の原野に置いた場合、そのことによって世界は確実に変化する。誰もそれで遊ばなくても、景観や地球環境に影響を与えている。しかし、今日においてそれは「売れる」か「話題になる」ことでしか、つまり労働(labor)に接近するか、行為(Acition)に接近するかのどちらかを経由しないと「実感」しづらいのだ。

 しかし僕はここが情報技術で支援されることで、「制作」は人間のアイデンティティ形成に、他の活動と同じくらいの簡易さと強さで寄与できるようになるのではないかと考えている。

 では、どうやって?

 手がかりは意外と身近なところにある。僕は今から7年前に、自分の事務所から出版した若い人の本に、編集者として以下のようなコピーを載せた。「十分に発達した計算機群は、〈自然〉と見分けがつかない」ーー落合陽一『デジタルネイチャー』の帯文だ。

 落合陽一の立場は、意図的に彼を貶めて矮小に見せようとする年長世代から、不当に脚色され、喧伝されている。たとえば、彼はユヴァル・ノア・ハラリとほぼ「同じもの」として批判されることがしばしばあるが、むしろその立場は正反対だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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