#34 困ったね。また話そうか。
怒涛の5日間が終わり、我が家はあの日々がもたらした各々への効果を振り返る時間一色になっている。
講師の方々との振り返り、食事スタッフとの振り返り、スタッフ間での振り返り。
一昨日前、5日間を通して記憶に残っていることを、あのとき相談出来なかったこと/実は困っていたこと、という視点で話してみる。
探究の時間中、参加者が何を言おうとしているのかわからなくてやりとりに困った。
グルーブの時間、眠たくて何も言葉が出てこなかった。
場を持つことに力身があったが、委ねられなかった。
想定外の事態を前に一人で解決策を練り実行した。ミスを指摘されないように振る舞った。
参加者とどんな距離間を保つべきかわからないときがあった。
困りごとを困った人が抱え解決するのは普通だと思われるかもしれない。
しかし、困っている人がその困惑から瞬時に距離を取り、冷静に多角的に解決策をそうやすやすと捻り出せるようなものなのだろうか。
自らの心模様をかなり丁寧に観察して生きている人でもない限り、それは難しいことだろう。
Gaia Youth 直前、準備が慌ただしく感じられる日々が続いていたとき、誰かがポツリと「『助けて〜』のハードルってもっと低くていいよね。」と言った。
困った。
助けて。
たった4音の文字列を発することは、我が家でもまだまだハードル高く、ひとりで頑張って燃え尽きてしまって助けが必要だったと後から気がつく人は多い。
言えないことのハードルをお互いガンガン下げあって暮らしている我が家でもハードルが高いのだから、一般人にとっては「困った。たすけて〜〜〜」を言うことは相当ハードルが高いだろう。
そもそも、それを何のジャッジもなくただただ受け止めてくれる人が周りに居ないから言えない人もとっても多いだろう。
プログラム3日目、講師に招いたウェル洋光台の戸谷さんのプレゼンのなかにも「困ったね。また話そうか。」というウェルの空気をよく表すスライドがあった。
人と何かをするとき、必ず困りごとも出てくる。どうすればいいのかわからないから困るのであって、わからないときは話すしかない。
戸谷さんもカップルの子育てを例に、子どもの養育費は、夫婦がベタベタと愛を語り合っていてもどうにかなるものではなく、どうするかは話し合うしかない。
つまり、
話し合いはやりたいかどうかよりも、
必要のあることとおっしゃっていた。
そのやりとりの質は、いまの世の中とても軽視されているけれど、そこが変わるだけで随分家庭や職場の居心地や風通しはぐ〜んとよくなるだろう。
誰かひとりの困りごとが、みんなの困りごと、みんなの考えたいことになってゆくと、なんだか面白いし愉しくなってくる。
結局のところ、その面白さ愉しさを知ってしまったからなんだかこんなヘンテコなことをやり続けているのではないだろうか。