No.2 本音を観る・聴く・生きる
「もう立っているのよ。」
何を仰りたかったのか暫くわからなかった。
これから書くことも見当違いかもしれない。
それでもその言葉を反芻するなかで何か身体の内からじわりじわり拡がっていき、辿り着いたことがあったので、それを書いてみたい。
ここ数週間、話しを聴いてもらえていない気がしていてもどかしかった。もどかしいと言うよりは、聴いてもらえない不満や苛立ち、被害者意識に浸っていた。話せる聴いてもらえる空気感がない。率直そう感じていた。
この暮らしは自分に合っていない。
なかなか真剣に悩んでいた。
知り合いの方が別れ際、最近の様子を尋ねてくれて、それに対してやりたいことができていないと返答した。
少しやりとりがありそのなかで、「もう立っているのよ。」という一言が出て来た。というよりそこがとても印象的だった。
帰宅してから、車内でのやりとりを振り返り、自分自身に問いかけるうちに靄が晴れてくるような安堵感が湧いてきた。
未熟者の集まりだから、願いがあっても今はすぐに暮らしは破茶滅茶で頓珍漢になってしまう。そうしているのが自分自身だという自覚も薄いままに。
プロジェクトの話しをするとその意見の食い違いとそれ以前の関係性が如実に現れ、ある種不快感を伴う気持ちが出てくる。特に一緒に暮らすある仲間には強く反応してしまう。
欠点をつき、批判し、責め、対立し、我慢し合うのはやりたくないことだ。
それでもそういうスイッチは入ってしまうことがあるし、自分自身でそのスイッチをオフにすることが極めて難しいことも多々ある。
やりたくないことだとはうっすらわかっているから、今度はそういう状況にならないように回避行動を積極的に取るようになる。
回避のパターンは人それぞれだろうが、自分の場合はその話題をしないようにする、スイッチが入りやすい苦手な人との遭遇を避け、まるで爆弾処理班が如くスイッチの回路を明らかにし、暴発処理が完了するまで一人で頭を悩ます傾向がある。
しかし、本当にやりたいことは、そういう自分ですら仕組みがわからない爆弾の自動スイッチの仕組みをみんなと明らかにし、必要がなければ取り外していくこと。そうして、自分とは一体全体何者であるのかわかろうとすることがやりたい。
二つの意識がある。
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