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水の更迭

涙が出るという現象を考えたとき、一番適当な表現は「自分の器からはみ出てしまった」である。

恋人からのプロポーズに感動し、家族との死別に涙を流す。感情があふれるたびに、人間の半分が水分でできていることを思い出す。生きていると、涙に暮れる日もある。涙は、感情の掃き出し口であり、内面の浄化作用だ。まあ、大学の心理学の授業で学んだことを思い出しただけなんだけど。

家のベランダに黒い椅子がある。日の出ている日に座ると熱くて座れたもんじゃない。椅子はただ黒く光や熱を吸収しやすいだけなのだけれど、それでも座るたびに熱いことを忘れて、ドスッと座ってしまってはとびあがる。

今日、羊文学のライブ映像を見た。メンバーの一人が休養していて、サポートメンバーがドラムを務めている。いつもは音楽を聴くだけで、その人たちの歌っている姿を見るのは久しぶりだった。ヘッドホンを通して想像していた彼女の姿は、もう少し陰のものだったけれど、実際は笑顔や仕草が可愛く、人間らしいなと感じた。控えめなコールアンドレスポンスの演出は、彼女たちらしかった。

そのライブを見て、特に何かを学んだわけではなかったが、日々の小さな発見が楽しい。それが僕にとっての小さな希望なのかもしれない。書いてて気づいたことだが、こういった些細な瞬間が、絶望の中でも小さな光となってくれる。

話は戻って、涙にはいろいろな役割があって、単に悲しみや喜びを表現するだけではない。妹は小さい頃、よく僕を悪者にしようと涙を流して親に怒られたものだ。

一方、僕はというと、涙が出るたびに、自分の器から感情が溢れ出す。それは、決して弱さではなく、強さの証だと自負している。涙を流すことで、水の更迭を繰り返しながら、僕は日々を生き抜いている。

そんなことを考えながら、掃除機をかけるハウスメイトの後ろ姿を見て、ふとまた自分の器からこぼれそうになった。ああ、僕はひとりじゃない。それは、たぶん、僕にとっての小さな希望なのだろう。




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