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大問題は大手中古車の宣伝(何とかモーター)だけではない。

 世間の耳目をこれでもかと言わんばかりに集めてしまう、マイナーニュース。楽しい話は、スポーツだろうが、例えばプロテニスでの醜聞、勝利至上主義とかナショナリズムとか、いやになることはやはりある。
 大々的な宣伝で有名な何とかモーターなど、いま大問題になっているが、実はぼくも無関係ではない。車人間だったが、昨年暮れに高齢者免許を更新したものの、娘やら妻やらに、もうそろそろ運転しなさんな、と言われて、まぁいつかは止めなきゃなんないわけだしと、どういう風の吹き回しか、パッと売るつもりになった。
 ずっと左ハンドルで来た身である。高速道路でのパンク事故を機に、中古で見つけたとはいえ、そこそこの値段でかねてより乗って見たかった別のドイツ車に替えた。それにしても宣伝効果というものは凄いもの、ある程度は信用するしかない。かなり買いたたかれるとは思ったのだが・・・。あれこれくだくだ申し述べることはしないが、その何とかモーターという中古車販売店の後味の悪さに加え、保険会社絡みでは3件、自動車でひと儲けしようと言う大企業システムの体質、馴れ合いには今日の政情が絡んできて、ぞっとしない。
 車関係の職人さんは、他の業界にない位好感が持てるし、親切な印象を持っているが、対象にできないのが、大企業や、すれた町工場主だ。保険や法律をいいように転がす「専門家」も含まれる。

 こういうことがあった。青信号で発車したら、携帯電話中の車が出てきて、運転席の側面をガチャーンだ。おかげでドアは使い物にならなくなった。しかし、ぼくは無傷。助手席にいた友人いわく、これ国産車だったら無残なことになったぜ、と。交番の警察官は、加害者が大手会社と分かると態度が一変。自分は現認していないから分からんと言う。裁判に訴えるしかなかった。そこで詳しく実証的な文書を作った(70枚くらい)が、ある弁護士は、裁判所は証拠調査や信号切り替えの映像など見はしないよ、とつれないものだった。
 こうして家裁は一人で闘った。大企業担当の大銀座の大法律事務所が相手であった。圧力は流石のもの。ははぁ、法律っていうのは、真理の追究に誰しも従うもので、弁護士はその最たるものという観念は見事に裏切られた。ちなみに家裁から地裁へ。相手側の魂胆だった。おかげでぼくは被告になってしまったのだ。驚いた。裁判の仕組みの一端が見えた。これで、しり込みして折れるとでも思ったのだろう。相手側は、弁護士の名をずらっと並べて、印鑑をそれぞれ押している。
 地方裁判所の判事は、ぼくも弁護士をつけられることを教えてくれた。「そうですね。」と、相手側の二人の弁護士(彼らはいい人柄だった)に念を押してくれた。色々あったのだが、証拠として提出したビデオを見て、公安に指示を出すなど、見事と言ってよかった。「え?見て下さったんですか。」と聞いたら、にっこりして「そりゃぁ、見ますよ。」とすぐ答えてくれた。結局2年半かかって向こうから示談の申し入れがあり、まぁ、勝利したのだが、忘れられない得難い経験になった。



 さて、前世紀後半のある時期から、アメリカの資本主義の金儲け中心主義が質的に変わったらしい。例えばノーベル経済学賞を授与された米国のステイグリッツさんは、自身の経験から確信して言う。「政策立案にかかわった学者がなんらかの提言をしても、それは政治の力によって歪められ、担当者の考え方に沿うように証拠がねじ曲げられてしまうのである。」(邦題は『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』で、徳間書店発行。8頁、2002年)
 証拠がねじ曲げられるのは日常茶飯事で、もう驚かない。いつの間にかそうなっている。言い過ぎかもしれないが、この日本など、最たるものだ。アメリカ政治の後を追って行くことが根本方針になった感すらある、日本の支配機構とそれを疑わない国民の構成する社会でいいはずがない。1960年頃からの変動(中学生になっていた)を生きてきたぼくの実感は、国は異なれどステイグリッツさんの言葉通りだ。その原因だが、大きな社会変化、新たな情報開発人や企業の登場などはもちろんのこと、カネの流れを詳しく見るにしくはない。
 菅義偉総理大臣は、2000年、日本学術会議会員6人の任命を拒否した。到底あり得ない話だ。税金で運営する以上、政府(総理大臣)や国会が認める形を取るのは当たり前のことだ。口出しできるということにはならない。ましてや、学問の拠点である。例え、最高の教育体験があったとしても、本職の決定に口をはさんでそれを動かすなんて、昔の「大政翼賛会」ではあるまいに、考えることもできない。しかし、である。それが行えるまでに、無知蒙昧というか、恐れを知らないことが平気で起こせるくらいにまで、わが国の在り方が変質してしまった。
 恐らく「日本学術会議」なるものは、学者どもの名誉欲に応えたもので、何の役にも立っていない、とほとんどの人は思っているのではないか。だから、菅総理が6人を拒絶しても、その世界の話であって、世人には大ごとではない。まぁしかし、政治家が学問の世界に立ち入るのはやり過ぎだけれどね。こういった理解の人が多数であると思うのである。


 だがしかし、先月のことだが、知り合いから同会の「学術フォーラム」があるから参加したら、と言われて登録し、本会議場に行ってみた。
 タイトルは長いけれど、「欧州とアジアの地域紛争をめぐる平和的解決と世界経済の行方 - 学術共同の観点から - 」で固っ苦しいから敬遠する人がありそうだが、一寸待って欲しい。このタイトルで敬遠するようでは日本もおしまいと思われるからだ。
 もちろん、このnoteで詳論する必要がないわけだが、各報告が最新のコンピュータグラフィックス(英: computer graphics、略称: CG)を用いて主張を解説。ノーベル賞の梶田隆章会長、山極壽一前会長(京都大学前総長)がビデオで挨拶したが、特に山極さんの話は、ぼくの胸を打った。思わず膝を叩く、という言葉があるが、まさにそれだった。人間はすべて闘争する本質を持ち、それで動く存在だという、ホッブス(英国、1585~1679)以来の考えを一つの思想流儀として批判し、このフォーラムの意義を訴えたのである。この議論はちょっと前に旧友と激論したことと同じであったので、ひときわ感銘深く、後に続く6人の方々の報告に期待をつないだのである。
 期待通りだった。学術(学問)の名に恥じないものばかりだった。果たしてこれらの議論が、識者に、そして国民にどのくらい伝わるのだろうか。これらの議論を受け止める識者や国民、政治家がどの程度いるのだろうか。それを考えると、日本学術会議の広報、宣伝等々に課題があるのは分かる。普通の努力では、誰も受け止めてくれないのである。非常に残念なことだ。
 だが、もっと問題なのは、こうした学術フォーラムの報道が一般紙やNHKなどに見られないことではないか。確かに、申し込めば「接続用アドレス」が送られてくるから、会場まで足を運ばなくていいのだが、報道関係者は見まわしても発見できなかった。会場に足を運んだのは20人くらいだったろう。各テーブルにマイクが設置され、なかなかの椅子席がゆったり用意されている会場、それが閑散としているのは、何とも情けない状況である。
 報道が民衆の耳目を集めることを第一とし、肝心のことを伝えていないことが、昨今ほとほと問題だと思う。したがって国民(市民)から学術会議がうっとうしく、知識人の名誉欲を満たすものと思われるのも、無理はない、無理はないが、それは間違いだ。危ういのだ。

(追記)その後調べたんだが、次のことが分かった。詳細は調べればわかることだから、簡単にお知らせする。すなわち、2008年以降、日本学術会議からは321の提言が出ている(2020年10月初まで)ということ、それに政府からの「諮問」は2007年あったきりで、「答申」は当然出ている。基本的に諮問あっての答申ではないか。それが出ていないと公言する国会議員などがいて、何も知らない国民は惑わされますよ。何もしていないというような発言を平気でする(できる)政治家諸君、知らないにもほどがありますねぇ。・・・2023年10月10日記。



 これらの話の最後に触れておきたい。もう一昔前になるが、世界詩人会議が原爆の地を訪れるということで、担当者から、長崎の日本側代表に指名されたことがある。夜行バスだなと思ってそれに乗り、翌朝8月6日の午前8時15分ころ丁度広島市内の高速道路を通過した。
 もう、本当にダメだなこれは、とがっくりした。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、それこそ原爆が落とされた日であり、時間である。しかし、放送はおろか、ほぼ満席のバス車内の窓のカーテンは閉じたまま、ほとんどの乗客は寝ているのである。携帯をいじっている人があったかもしれないが、忘れてはならない日を迎えているのは、バスの中ではどうやら自分だけらしい。開けたカーテン越しにみる市内も、夏休みのせいか、サイレンも鳴らず静かなものだった。
 戦後教育とは何だったのだ。平和教育も、政治闘争の具にされた面もあり、とも角、自分を失った日本の、非常に象徴的な姿がある。
 受験戦争で勝ったからといって、原爆の悲惨、戦争の悲惨、逃げ場を失った人々に悲惨を思わないのなら、その勝利は「ニセモノ」なんだと、ぼくは考えている、(8月5日、東京にて)

 和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com です。ご連絡ください。

 なお、9月11日(月)に、小金井宮地楽器小ホール(武蔵小金井駅南口直ぐ)で、「9.11鎮魂と紛争犠牲者に捧げる芸術祭」を行います。入場料2500円です。皆さまのお力を得て、この社会を少しでもいい方向へと願っております。
 また、8月30日から9月4日まで、杉並区の阿佐ヶ谷地域区民センターで、詩文の展示会を開きます。9.11、平和社会のために、少しでもいい言葉を味わっていただけるようにいたします!お出かけください。

サポートは本当に有り難く!そのお心に励まされ、次の活動への大きなエネルギーになります!