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自然災害への万全の態勢で冠たれ

 12年前の3月11日午後2時46分。ここ東京も初めてと言えるような大地震が起きました。ぼくの事務所では両開きの飾り棚が開き、美しくほどこされたボヘミヤンの花瓶が飛び出して、割れました。たまらず周りの様子を確認しようと、4階からベランダに乗り出し、中庭をはさんだ向かい側から、若い男性の姿と声を聞きました。「これは大きいですねぇ!」と手すりにつかまりながら、その人は叫んでいました。
 TV報道によりすぐに分かったことなのですが、それは全く東京直下型の地震ではありませんでした。やがて広い海の向こうから波の高まりが押し寄せてくるのを画面に見ました。津波です!だだっ広い平地を目指して迫ります。恐ろしい、自然災害が起きている。
 流石にうろたえたことを思いだします。東日本大震災、福島第一原発の大事故をも引き起こした大震災でした。
 電車が止まり、沢山の人が列をなし、都心から自宅に向かって、7時間も、8時間も我慢強く歩いた人たちが大勢います。あれから、あっという間に12年が経って行きました。今年も、これを忘れてはならないと、東北地方を中心に各地で行事が行われ、報道機関もそれを伝えました。当時の映像や、インタビューも流れます。

桜の季節が始まりました。近所の公園で。

 忘れてならないことは、悲しみばかりではありません。そして地震や津波の怖さばかりではありません。復興の状況や分析ばかりではありません。
 人びとの思いのほかの尽力、人情、勇気、自己犠牲に心奪われます。しかるに、そればかりでもありません。(あまり触れたくないことですが、その反対の人びとも少なからずあったこともあるのです。)
 辺り一面津波に沈み込み、破壊された町のなか、九死に一生を得た同世代の婦人と出会いました。震災から半年後の石巻、遠くに松原があって、その向こう側が広い海になっているそうです。その方をちょっと呼び止めて、お話を聞きました。この一帯のこと、市立病院や日赤病院のこと、現市長や人助けを最優先にして亡くなった前市長夫婦のこと、職員のこと、大川小学校の悲劇には非常に信じがたい混乱が起きていたことが分かりました。
 でも、それらに尽きてしまってはなりません。「なぜ?」と問うことがなければならないと思うのです。
 必ずしも、十分な説明がないのはなぜ?という大問題に答えよというのではありません。しかし、抜きにできない別の大問題があります。
 一つは、教育、学習に関係します。もう一つは点ではなく線であり面である、ということだと思うのです。

下の方にも、目いっぱいの美しい花びらを付け。

 「公害原論」などで著名な宇井純氏(1932年~2006年)に、横浜でインタビュ-した時(2001年7月)、先生は、JCOの事故(死者を出した1999年9月の「東海村JCO臨界事故」)との関連で、「今後もどうしたらよいか分からないというような事故は起こるであろう。そういう時に、地域の学校が知識人の集積としての責任を問われるんではないか。」と話されました。

横浜のホテルで、宇井先生と。ぼくは翌日朝からヨーロッパに出る忘れ難い日。

 そして地震を例に挙げて、「地域に力をつけるというところで学校というのは大きな拠点になり得るだろうという気がしている」と忘れられない指摘をなさいました。
 例えば、「津波と風波」について、きちんと教えられていないとぼくは思いました。だから、津波が起こると警告されているのに、三陸のあるところでは、海の方に向かう自動車の列と、それを誘導する道路の整理人の姿が映ったのです。それはもちろん、誰が悪いわけでもないのです。

眼にもまばゆい新緑の渓谷(秋川で)

 全国一斉で画一的に上級学校への進学を第一とする学校教育や塾、予備校が今を支配しています。知識などあふれかえっていると言えるのではないでしょうか。
 だがそれは違う、とぼくは言わなければなりません。つまり、その知識なるものは、「閉塞知」であって、おおかた「活き活き」した思考活動は閉ざされているのです。要求され、美化されるのは、せいぜい定まった「答」への考える力であって、生徒や教師の「あれやこれや」は邪魔であり、本物の知的教育とは決して言えない代物なのです。(この「閉塞知」概念は、複数の国際哲学会で発表され、ケンブリッジ出版の哲学論文集にも収録されている、ぼくの学術的成果の一つです。是非この言葉を覚えて欲しいと思っています。)

満開の染井吉野です。

 もう一つですが、「点」ではなくて、というところを是非とも考えたいところです。でないと、一個一個の事例から出ることなく、覚えておきましょうで、時と共に風化してしまう恐れがあります。肝心なのは、「線と面」すなわち「つながり」であり、少なくとも日本国土そのものの理解です。
 地震や津波などの災害国土日本、の意識にはなかなかならない。悔しいかな、ことばに実体がともなっていないように思います。
 そこで思い出しましょう。1995年1月17日のまだ開けやらぬ早朝、主に西側、関西の人びとは、これ以上はないというほどの「阪神・淡路大震災」に見舞われました。
 「新潟県中越地震」(2004年10月)は、むろん新潟県に留まるものではありません。震源の深さ13キロの直下型の地震で、「阪神・淡路大震災」以来初めて震度7と言われます。ぼくの知り合いも、現地に時間を作って支援活動に向かっていったものです。
 これらは大人なら何とか覚えているかも知りません。今年100年を迎える「関東大震災」も報道されますし、誰でもが知る大自然災害です。
 では、「明治東京地震」はどうでしょう。聞いたことがありますか?1894年(明治27年)6月20日14時4分に東京湾北部(北緯35.7度、東経139.8度)を震源として発生した地震です。南関東直下地震の一つで、地震の規模はマグニチュード 7.0、震度6、震源の深さは約40~80キロメートル (km)と推定されています。
 さらに、「濃尾大地震」はどうでしょう。明治24年(1891年)10月28日午前6時37分、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を襲った大地震です。岐阜地方気象台の地震計の針が振り切れてしまったくらいの大きな揺れでした。4日間に、烈震4回、強震40回、弱震660回、微震1回、鳴動15回、合計720回を数えたそうです。世界最大級の内陸直下型地震でした。
 1704年の「宝永地震」(宝永4年10月)はどうでしょう。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされ、東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震です。(特にこの時代、富士山の大噴火のこともある。)
 嘉永7年(1854年)に連発した「安政東海地震」「安政南海地震」もあります。また、「宝永地震」の4年前(1703年)には、相模トラフ巨大地震の一つである「元禄地震」が発生しているのです。

何の桜でしょう?散歩途中で撮りました。

 ここまで、記したことで、津波や噴火や飢饉のことにも触れる必要があると思いました。何といっても、「明和大地震」の大津波(1771年)があったのです。そして「天明の大飢饉」浅間山大噴火、1787年4月)です。こうなると、18世紀の大昔のことと言って済ますわけには行かないのです。日本列島全体が、自然災害とその対策を怠らずに構えてこそ、「生命」尊重を言うことができると思からです。
 江戸時代には全国的な飢饉が35回あったといわれています。なかでも1732年(享保17年)、1783~87年(天明3~7年)、1836~37年(天保7~8年)の飢饉が特筆され、「享保・天明・天保の三大飢饉」と呼んで、中・高等学校の歴史の授業でも習っていると思います。
 飢饉が起きると、農村では一揆が起き,米価をはじめとする物価の異常な値上がりによって,都市部でも打ち壊しが起きてきます。
 まだまだ、あります。近年では、北海道南西沖地震=奥尻島地震(1993年=平成5年7月12日)をお忘れではありませんか?奥尻町北方沖の日本海海底で発生し、津波、火災による死者を多数出しています・・・・。最近では震度7の熊本を中心とした大地震がありました(2016年4月14日夜、熊本地震と言われる)。友だちが住んでいますが、無事で何よりでした。熊本城の完全復興はまだまだ先のことになります。

 毎年行っている「3.11メモリアル 響き合う詩と音楽の夕べ」(3月11日、日本福音ルーテルむさしの教会)で、金子みすゞさんの「去年のきょう ―大震記念日に―」という詩を朗読しました。恐らく金子みすゞさんは、1905年(明治38年)の「芸予地震」を頭にこの詩を書いたと思われます。
 瀬戸内海の安芸灘を震源として発生し、震源に近い広島県・山口県東部と愛媛県に及んだ地震です。フィリピン海プレートの動きによるスラブ内地震と考えられているようです。ぼくは「芸予地震」の名を全く知りませんでした。みすゞさんの詩と出あい、調べることで初めて知りました。
 
 毎日、毎日、誰誰がどうの、隣国の侵略にどう備え、防衛予算を組むかなど、大国や、司法、経済などの目まぐるしい報道があり、評論家やタレントさんたちが意見を述べています。スポーツ報道には大いに力が入ります。その一方、ぼくたちが住まうこの日本列島が、大小問わず自然災害に見舞われる地であり、その備えを第一にしなければならないことを、軽視するものであってはなりません。大袈裟に感じる人はいないと信じます。

  今をうたって 明日をうたって
                             和久内明
明るい陽射しが冷たく湿った地面を温める
裸の小枝をなでるそよ風
小川のさざなみ
水草のからだが光に踊る
水面に顔出す小魚たちの戯れ。

悲しみで一杯になった地面にも
明るい陽射しが降り注ぎ
赤や黄いろに揺れ揺れ光る花々と
若葉をそよがすたくさんの木々が
真っ青な天空に包まれて
きれいにすんだ大気を送ってくれる。

希望の光
勇気の力
人々の情(じょう)
人であること 人々であること
愛のなす力と悲しさよ

歌わん今宵も
歌わん今を
歌わん明日へと
うるわしいうたを。

 今年の「3.11響き合う詩と音楽の夕べ」で、詠んだ詩は「金子みすゞ」さん、「坪井繁治」さんと上の詩です。

現地の方々は思いだしたくない、とこの船を撤去しました。部外者のものの言い様と言われるかもしれませんが、こうして第二次大戦も忘れ去られて今日の日本があるとも言えます


 義捐金は、「4万171円」お預かりしました。会場費、フライヤー印刷費、コピー代、配達費用等々を1万円頂戴し、3月20日、「3万171円」を「特定非営利法人 いわき放射能市民測定室」にお送りしたことをご報告します。有難うございました!


和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com まで。ご連絡をお待ちしています!


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