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レモネード【小説】第2話

「ただいまー。お母さん、イモ、置いとくよー」
 るねの家はてんぷら屋をやっている。魚、イカ、イモが人気だ。通はモズクや紅ショウガのてんぷらも頼む。しっとり触感で、店頭でソースをかけて食べることもできる。客は近所のおばあひとりだった。
「あんたそんなに急いでどこにねー?」
「先生のとこ!」
「ちょっと、あんた!」
 イモを棚に半ば放り投げ、鏡で髪を整えると、るねは行ってしまった。手を粉まみれにした母のるりが調理場から顔を出す。
「もう、あの子ったら」
「いいじゃない先生のところにだったら」
「それはそうですけど、受験生なのに心配なんです。中高一貫とは言っても、エスカレーター式にあがれると限はらないんですよ」
 まあまあ。老婆はたしなめ、やってきたイモが揚がるのを待った。
伊計島のまるで太古の獣道のような道なき道をゆけば、そこに<先生>と島民が愛称をつけて呼ぶ男の家がある。るねはチャイムを鳴らすと、勝手知ったるように家にあがる。すでに何人かの近所の子が集まっていて、互いに挨拶をする。奥では男子が今どき古いカセットゲームに熱くなっている。
「お、るねか」
「お邪魔します、先生」
 先生は歳の頃は四十代。いつも長袖のかりゆしに、スキンヘッド、ヒゲをたくわえている。そこは<朝日楼>。放課後、居場所のない子どもたちが自然と集まる。とくにNPOというわけでもないが、先生は夕方の空腹の時間になにか一品料理をつくってふるまう。
「今日は豚汁ですか」
「ああ、キッチン任せても?」
「はい」
 お玉をバトンタッチして、先生はダイニングの開きっぱなしになっているパソコンになにか打ちこみはじめた。先生は<先生>と呼ばれるからにはなにかをしているらしく、一見見ただけではそれとはわからない本や書類が積みあがっている。
「ねー、豚汁まだー?」
 おれも腹減ったー。耐え切れなくなった小学生軍団がぶつくさ言いはじめた。
 るねはニンジンをひとつすくい上げて、息で冷ましてほおばった。
――うん。おいしい。
「できたよー。お皿、自分で用意して」
 るねはそこではお姉ちゃん役だった。もともと姉御肌、という気性ではないけれど、よくなつかれた。
「先生、豚汁できました。冷ましておきますね」
 そう、見た目に似合わず先生は猫舌なのだ。
 るねは今年の春からここに通いつめている。それがなぜだかはわからなかったが、仲間意識なく、なにをしてもとがめられない、個室がいくつもあるここが、彼女のうまく息ができる居場所だった。
 るねは、先生の向かいに座り、豚汁をすする。先生はるねのほうを向かずに、メガネにパソコンの光を反射させながら訪ねた。
「あの本読んだか?」
「はい、一晩で日本から香港に行きました」
「あの本に、中国と香港政府の決定的な民衆の考え方の差異がある。今の時代、読んでいて損はないはずだ」
「はい。八十年代のノスタルジーな香港のサイバーパンクな夜の街が、目に浮かぶようでした」
「そうか。写真のほうは?」
「今回もダメでした」
 るねは実は写真家を目指している。カメラマンではなく、<写真家>である。つまりは本にしたかった。そのためにコンテストに日々応募しているが、予選も通過したことはなかった。
「今日、すごく絵になる被写体がいたんです! 物語に出てくる美少年のような、白人とアジア人のハーフみたいでした! どこからきたんだろう、カメラがあったら撮ってたのに!」
 その勢いに気おされた先生は身じろぎ、すこし微笑んだ。すぐ会えるさ、と。
「被写体呼ばわりされるとはね」
 その声の主は、間違いなく、あの少年であった。るねがふり返る。肩まである長い髪を縛っている、先ほどの少年がそこにはいた。るりは指をさして口をパクパクさせた。
「金魚かよ。お前は」
 そう言って少年は先生のためにいれた豚汁に口をつけた。
「まずっ」
 そう言って、アシュレイは先生秘蔵のレモネードを洗いたてのコップに注いでのみはじめた。なんだこいつ。るねは思った。
「アシュレイ。自己紹介しなさい」
「幸田アシュレイ」
「……伊志嶺るね」
「ただいまー」
 タイミングよく、先生の恋人である、雅子が現れた。専門学校で洋画を教えている。美人で気立てがよく、こちらも子どもたちになつかれている。
「よかった。るねちゃん。これ、写真」
 写真館が近くにないため、雅子は街に出るたびにるねの写真を印刷してくれるのだ。
「わー。ありがとうございます」
 みんながのぞきこむので、るねはすこしこっぱずかしかった。上手―とかうまーいと子どもたちは言う。
「下手くそ」
 ハンマーでこめかみを殴られたような衝撃。アシュレイは相変わらず涼しそうな顔と、ガラス玉のような目をしている。
――なーんーだーとー!
 怒りを抑えながら、るねはアシュレイを見た。アシュレイはレモネードにシロップをかけていた。
「綺麗な海ばっか。どっかのポストカードみたい。沖縄ならどこでもとれる写真ばっかりじゃん」
 意外と踏みこんだ見地に、すこしるねは驚いた。同時に、そんな悪いやつじゃないかも、という感情が芽生えた。そんな顔合わせだった。

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Asha Wakugami
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