見出し画像

1993年の燕(つばめ/短編小説その2)

 翌朝も、昭彦の起きた時間は昼に近かった。すでに夏の陽は高く、窓を開けると庭のベージュ色の土が眩しかった。その反射のなかに、雲母の粒子が輝いているような気がした。段丘の向こう側では、山地の青い影の上に、積乱雲の兆しが重なっている。
 実家の庭と、昭彦のややくたびれたルノーとの取り合わせは、奇妙な親和性があり、どこかしら可笑しかった。一部のフランス車は、農具に似たところがあるのだ。昭彦の実家は梨農家で、柿も少しはやっていたから、秋になると、納屋の軒下に干し柿の色が並んだ。風がよく通る納屋の二階は案外涼しく、中学生の時分には、よくそこで漫画や本を読んだ。
 一人で飯を食べたあと、階段を軋ませて、昭彦は納屋の二階に上がってみた。そこからの風景はだいぶ変化していた。バイパスの構造物が、隣の家の畑に灰色の壁を作り、畑の傍らの石積みの水路も、昭彦が通学やなにやらでずっと使ってきた市道も、そこで封されていた。果樹園の傍らを流れていた、石積みの水路は蓋をした排水溝に変わり、下りながらゆるやかに曲がっていた道は、味気ない側道に折れるしかなくなった。路盤の高さが違うので、バイパスに出ることもできないのだった。
 和男と大町に日帰りした日も、昭彦は、あの市道を段丘の下から上って帰ってきた。股のあたりが痺れかかっていて、這うような速度だった。当時簡易舗装だった路面は危なっかしく、夜道にダイナモの灯火はあまりに頼りなかった。子供の頃から知った道でなかったら、水路に車輪を落としかねなかっただろう。
 両親にはいくらか小言を言われ、呆れられもしたが、その、いささか気張りすぎた日帰りサイクリングは、昭彦にとって、慣れ親しんだ道を別の面から知るきっかけにもなった。自転車で遠出をしてみると、それまで、数え切れぬほど辿った家路が、違うものに見えた。踏切を越えて開ける段丘の上、稜線に並ぶ黒い木々の影、道を傍らを下る小川の水音、そういったあたりまえのものが、他の土地ではそうではなかったことを知った。
 たかだか飯坂と大町の間ぐらいでも、世間は広かった。中小の工場が錆びた鉄の色で並んでいる殺伐とした界隈や、こぎれいな家が並んでいるのに虚無的な空気感のある住宅地も、昭彦たちは通った。
 そういう道と比べると、自分が少年期を送った辺りは、素朴で濁りがなかった。道は、昭彦が自転車に乗り始める前からほとんど変化していなかった。
 その道が、途切れた。バイパスを横断して向こう側に行くには、いまや、少し離れたアーチ橋の手前まで行き、路盤の下にトンネルのように作られた、歩行者用の連絡道を通るほかないようだった。むしろ、北側の、実家からは遠回りの道のほうを使わざるを得なくなった。一昨日の晩は、そっちを通って車で帰ってきたのだ。
 昭彦の少年時代の道筋は失われ、そこに四車線の、平成の新道ができ、農具にも馬具にも似ていない、平成の自動車たちが走るようになった。
 
 午後になって、陽が翳った。昭彦は、一キロほど離れた郵便局に歩いて現金を下ろしに行った。そのついでに、少し遠回りをして、バイパスの具合を見に行くつもりだった。下のほうからの眺望は、より変化していた。昭彦の家や、周囲に点在する何軒かの家並みは、バイパスの陰になり、昔からある街道筋の付近からはまるで見えなくなっていた。
 そのあたり、郵便局があるのは地元の人間くらいしか知らない旧道沿いで、あの日の大町への行き帰りも、昭彦と和男はこの道を使った。バイパスができたことで、この道の交通量はずいぶんと減っていた。製材所の角を曲がり、昭彦は坂を上り始めた。
 その途中で、怪しかった雲の底から電光が走るようになり、アスファルトに黒い水沫が滲み始めた。河岸段丘の上に夕立が来、影の色に野も木立も屋根も染まった。
 昭彦は、スーパーで買ったばかりの雑誌を頭の上に載せてやり過ごすつもりだったが、雨の強さは増した。何もない梨畑の道を行くのが心細くなるほど、雷鳴も近づいてきた。
 バイパスのところで、彼は、地元の人間用に造られた連絡道があることを思い出し、そこへ駆け込んだ。
 バイパスの路盤の下に設けられた連絡道の中は、以前の雨水で流れこんだ砂がたまり、埃っぽかった。ろくに人が通ったような気配がなく、昭彦はいささか気落ちがした。こんな通路が、自分の少年時代の重要な道の代替路とは、信じられぬような気分だった。
 稲妻が足元の泥を照らし、雷鳴がコンクリートの壁の中で反響した。路面の水の膜を裂くロードノイズが、頭上から伝わってきた。うんざりした昭彦が実家まで走るかと考え始めたとき、一人、いや、一人と一台がこの通路に入ってきた。
 自転車で旅行中と思しき、学生風の青年だった。
 青年は、昭彦に会釈して、自転車から降り、旅装状態のまま壁に立てかけた。角石自転車のランドナーで、フロントバッグとサドルバッグの旅装だった。
 ツーリングかい、と昭彦が尋ねると、そうです、と答え、ことの次第を説明した。
「そこの長い橋を渡るにはいやな雷だったんで、どうしようかなと思ってカーブの手前で考えてたら、ここに人が入るのが見えたんで、側道に降りられるところまで戻って、おじゃましちゃいました」青年はそう言った。
「ランドナーは、珍しくなったね、近頃」昭彦がそう言うと、青年の目の色が変わった。
「あ、自転車に乗られるんですか。ランドナーに詳しいんですか」
「いや、昔ちょっと乗ったことがあるだけだよ。それほどいいのに乗ってたわけじゃないし、オーダーもしたことはないんだ」
「自分もよく知らないんすけど、先輩が、旅をするならこれがいいって教えてくれて、それで最近、乗り始めたんです」
 世間話をしながら、どこまで行くつもりなのかと型通りの質問を昭彦がすると、三重の実家まで帰る途中です、と青年は言った。今日は天竜峡の知り合いのところに泊めてもらえるんで、あと少しなんです、とつけ加えた。
 彼のフロントバッグのマップケースは、曇りの無い新品で、その上に雨の飛沫が転がっていた。新品の帆布からは、染料の匂いがしてきそうで、昭彦は、そのことに、自分でも不思議なくらい、切なくなった。
 夕立と青年が去ったあと、昭彦はそのような気分のまま、歩いて実家に戻った。いくらか暑気の払われた河岸段丘上に、夕刻を告げるひぐらしの声が響き始めた。

 旧い納屋の戸口に昭彦は立ち、土と梨の甘い匂いがむせかえるように満ちている空間の奥を見やった。壁の高いところに明かり取りの窓があり、その光の下で、農具や旧い道具が影を成していた。いちばん下の、壁際に、それは身を寄せるようにひっそりととどまっていた。
 近づいて、昭彦はその物体の塗装の上に指をすべらせた。白い埃が指先に移り、埃が付いていたところからは、艶を失ってはいるが、まだもとの色彩がいくぶんか残っている塗装が現れた。
 庭では、くたびれかけたルノーのボンネットに夕暮れの空が映っていた。ルノーは、納屋の自転車と同じ草色だった。

(最終回)につづく>

ご支援ありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。