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『日本の川を旅する』を読んだ

遅きに失した感があるが、2022年の3月に亡くなったカヌーイスト野田知佑(ともすけ)氏の著書、『日本の川を旅する カヌー単独行』を読んだ。

この本が書かれたのは、或いはこの本の基盤となるカヌーの旅が行われたのは、1970年代の終りから80年代の初頭にかけてであった。

その時代に自転車の旅らしきものを始めた自分にもよく記憶に残っているが、当時は日本の戦前から連綿と続いてきたものが急速に失われていく時代でもあった。

失われつつあるものは、豊かな川の自然であり、それと一体となって旧くから続いてきた人々の暮らしであった。

その時代の日本はまだ貧しかった。貧しさというものがようやく解消されたのが1980年代の中頃以降であったのだ。

それと引き換えに、川はかつての面影を失った。電源開発や河川改修、工場や生活の排水による汚染等々によって。

この本の中で野田氏は土地の老人たちの声に何度も何度も耳を傾ける。古老たちは失われてゆく旧い価値観を代表し、それについて素朴な言葉で語る。彼らは「過去」を象徴している。

とうの昔に「戦後」になったはずの日本各地で、田舎暮らしの鬱屈を抱えた若者や一部の壮年は、「現在」を表している。ようやく乗り越えようとしている貧しさと引き換えに、何かを失ってゆく世代の悲哀が描かれる。

著者はその「過去」と「現在」のはざまでカヌーのパドルを漕ぎ、旅というあり方でしか、この世界に向かい合えない自分を見つめている。

懐かしく、美しく、そして切ない。旅はいつも下流で終わる。それがカヌーで川を下る旅の宿命だからだ。

水が清冽で、人情も豊かだった上流部から始まった旅は、都会の汚濁にまみれた下流でエンディングを迎える。

それが摂理のようなものだとはわかっていても、やはりこの切なさは消し去りがたい。そういう意味ではこの本は必ずしも明るいとは言えないが、随所に散りばめられた、川の男としての、或いは在りし日の少年としてのけなげな気概がそれを救っている。

この本を私にくれた友が書いていた。野田氏は冒険家ではなく、旅人なのだ、と。人力の旅人であるシクロツーリストにも強力にこの本をおすすめする。書かれてからすでに40年が経過しているが、少しも古びてはいない。

旅をすることの愉しさ、爽快さ、深さ、そして旅をすることの辛さ、寂しさ、やるせなさがこの本にはつまっている。そのことの半分くらいは、旅をしたことがある人にしかわからないのかもしれない。

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