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自由の森学園創立40周年記念シンポジウムに参加して

自由の森学園創立40周年記念シンポジウム(in飯能)に妻と参加してきました。
テーマは「いま、学び・学校に問われているものは何か」です。
まずは挨拶4人の方の挨拶から。
挨拶
自由の森学園理事長 鬼澤真之さん
南アルプス子どもの村小中学校校長 加藤博さん
和光中学高等学校 橋本 暁さん
明星学園校長 平野康弘さん

司会の方が4人の方を紹介する際に、「さん」づけで紹介しているところに「ジモリ(自由の森学園)らしさ」を感じます。
最初に挨拶をした鬼澤さんは、「競争主義を排する」ためにジモリができたというようなお話をしていました。(まだまだテストや評定の数値で人間を序列化するような学校、社会はありますよね。僕も頑張らねば…。)

シンポジストは、
勝野正章さん(東京大学)
中村(新井)清二さん(大東文化大学)
阿比留久美さん(早稲田大学)
片岡洋子さん(千葉大学名誉教授)
ファシリテーターは
菅間正道さん(自由の森学園高等学校校長)
です。まず一人ずつ、15分程度お話がありました。以下、簡単にまとめてみました。

勝野正章さん(東京大学)「教職の専門職性と同僚性をめぐって」
勝野さんは、教師がある意味一人の人間であるためにどのようにしたら良いか、というようなことを考えていたようです。教師の世界では、「◯◯すべき」「○○するものだ」という同調圧力のようなものが働いています。教師として夢をもって教職の世界に入っても、自分が何かしたいという欲求の「穴」を自分ではない他者から勝手に埋められてしまう(行政のやり方・学校が定めた授業スタンダードに従わさせられるのがこれに当たりますね)。さらには、「不服従」の主体であることを求められる(現状に満足せず研鑽に励め!教師はとにかく学び続けろ!ということですね)。
そうした教師の規範的な同調性からはみ出るには、複数性(一人ひとりが違う人間であるという意味だと思います)を肯定する必要があるとのことでした。(まさにシティズンシップですね。勝野さんはジュディス・バトラーのアセンブリから引用しているようでした)。

中村(新井)清二さん(大東文化大学)「『途中でやめる』『失敗する』おもしろさの主成分です」
「主体的に学習に取り組む態度」の中身が「粘り強さ」であるとされていることへの違和感を語ることからのスタートでした。学校は、子どもたちの粘り強さを「評価」する。そこが「卑怯」だとおっしゃっていました。そのような状況の中で、学校はおもしろい世界との出会いの場であってほしいという中村さんは、遊びが重要であると言います。遊び研究の中で明らかにされた「おもしろさ」は「様式化」と「脱様式化」の絶えざる交替、相互転化の変動性にある。ここで「いないいないばあ」やサッカーからラグビーが生まれた経緯を例にお話していました。
失敗したり、途中でやめたりしていくことを大人が許容し、おもしろがる様な自由な雰囲気が不可欠とのことでした。(教師のあり方がここに見えますね。)

阿比留久美さん(早稲田大学)「子どもがみずから居場所を見出せるような学校/社会づくり」
居場所研究を専門とする阿比留さん。こども家庭庁から「こどもの居場所づくりに関する指針(答申)」から、社会的紐帯が弱まる社会の中に居場所が必要であること自体には同意するが、そこが居場所であるかどうかは、当事者の主観によって決められるのではあれば、第三者が積極的に「居場所づくり」をするというのは、疑問が生じるとおっしゃっていました。このように子どもを支援される客体として捉えることが危険であると。子どもの育ちを考える際、子どもを客体とみることがおかしいと。
子どもが主体となって居場所を見出していけるような環境整備は、学校や社会の中に、余白/あそびが求められる。それは子どもを権利(rights)の主体とし、自治/自律性(autonomy)を信じ、保障するということともつながると。(学校って、子どもの余白なんてほとんどないですもんね…。)

片岡洋子さん(千葉大学名誉教授)「自由の森学園40周年に寄せて−カリキュラムとは何か−
片岡さんは、フレネ教育の専門家の方です。フレネ教育は、公立学校でできるように作られているというお話からスタートしました。フレネ教育に対する批判は、系統的に学習内容を学んでいけるのかということ。しかし、フレネは、子どもの興味は多様であり、興味が複合していくことで、様々なことを学んでいけると、系統主義を超えていこうとしたんですね。
佐藤学のカリキュラム論を引用しながら、教授要目(シラバス)と教育内容の過程(カリキュラム)の違いを述べていました。カリキュラムとは、学校において教師が創造し生徒が経験している教育内容の過程が「カリキュラム」と呼ばれるになった。そしてカリキュラムを「学習経験の総体」とし、カリキュラムの現象を教師と生徒との「個人誌」として記述することの重要性を示唆していました。既存の通知表としての、評定としての評価、「ここまでできるようになりましたね。」という評価でなく、「ラブレターの様な評価表」が必要であるとおっしゃっていました。

感想
その後のディスカッションも含めての感想ですが、勝野さんは主に教師にフォーカスしてお話をしてくださいました。哲学的視点から、やはり教師も複数性を前提にしていくべきだと考えているようでした。複数性を前提に考えることができれば、わたしではない他者によって、わたしとの違いを感じ、わたしの輪郭が見えてきます。他者と違うからこそ、つながることで見えるもの、そんな共同性を大人も子どもにも感じてほしいなと思いました。この複数性を前提に考えるということは、片岡さんの議論にも通じます。「個人誌」というお話がありましたが、そもそも学習を教授の世界と捉えると、空っぽの器である子どもに、教える者である大人(教師)が、知識を入れることになります。子どもは皆同じで、一律一斉に知識を注入される存在ではない。子どもを客体と捉えることをしないという話が阿比留さんからもありましたが、子どもを無知なものと捉えず、子どもは自ら学んでいけると考え方を変えてみることがやはり重要ですね。
子どもは一人ひとり違う存在であって、興味も違う。それぞれのエピソードがあっていい。そこに教師が寄り添っていくことができたなら…。そうした関係が教室のそこここで起こるなら、まさに興味が複合していくこともあるでしょう。それぞれの学びがリゾーム的に(地下茎のように)広がっていきます。これは、勝野さんがおっしゃっていた「共同性」とも重なります。学校がガチガチに凝り固まった場所であるならば、勝野さんや片岡さんがおっしゃっていたことは実現不可能だと思います。まさに、それぞれが居場所と感じる様な場所にはなり得ないでしょう。やはり中村さんや阿比留さんがおっしゃるように、そこには「途中でやめる」「失敗する」ことをおもしろがれる「余白」や「あそび」があることが重要なのでしょうね。粘り強く取り組むことがよいことという価値観は、日本には強くあるように思います。子どもの習い事、さらには就職などもそうではないでしょうか。「とにかくある程度やってみなさい。」と親や先輩から言われた経験はありませんか?やってみて初めてわかることもあります。「これじゃないな…。」とやってみてわかったら、引き返してはダメなのでしょうか。色々やってみることは本当に良くないことなのでしょうか。考えさせられますね。

ジモリの40周年記念シンポジウム。次回は9月7日(土)だそうです。なんと内田樹さんがご登壇されるそうです。
楽しみです!

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