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【短編小説】ヒエラルキーの牢獄 第3話

 翌日、アレン達はミットライト行きの飛行機に乗った。
 アレグラからミットライトまでは1万キロ弱。フライトは、12時間以上にも及んだ。
 現地の空港からタクシーを使い、さらに1時間ほど走る。そうして、二人はようやく、ハーシーのいるレイデン大学病院にたどり着いた。
 看護師の案内を受け、彼の病室に入る。
 ベッドに横たわる父の姿を見た瞬間、アレンは話そうと思っていたことが、すべて吹き飛んだ。
 初めて見る父は、今生きていることが不思議なほどに、痩せこけていた。
 やつれ切った頬に、落ち窪んだ目。顔色は粘土を思わせるような黄土色をしていた。
 だが、二人の姿を見た瞬間、彼の顔に僅かな生気が宿った。
「テレサ、アレン。よく来てくれた。本当に、よく来てくれたね」
「ハーシー……」
 テレサもまた、それ以上の言葉が出なかった。二人はハーシーの手招きに従い、ベッド横の椅子に腰かけた。
「テレサ、こんな姿で、驚かせてしまったね。アレンも、ほとんど初めて見る父の姿が、こんな風で申し訳ない」
 父の声は、アレンが想像していたより、ずっと穏やかだった。少なくとも、家族を顧みず、故郷を飛び出した人とは思えなかった。
「こんなになるまで、ずいぶん無茶したのね」
 彼女の言葉に、ハーシーは苦笑いを浮かべた。
「バカだよなぁ。本当に、バカだったよ。疲れ果てて家路につく度に、君の言葉が頭に浮かんだ。あの日、初めてこの国に旅行へ来た時の、君の言葉が」
 テレサは首を傾げた。ハーシーはふっと笑みをこぼし、天井を見上げる。
「あの日、初めてこの国を見て、僕は舞い上がっていた。アレグラにはほとんど無いような高層ビルが、ここにはいくつも立ち並んでいた。泊まったホテルの部屋はとても綺麗で、サービスも、出てくる料理も、まるで夢のように思えた」
 その日のことを思い出したのか、テレサは「ええ、そうだったわね」と、深く頷いた。
「あまりにも感動してしまって、あの日の夜、僕は君に言ったんだ。子供達を連れて、この国で暮らさないかって。そしたら君は、悩む間もなく首を振った」
「だって、ありえないと思ったもの」
 ハーシーは掠れた声を上げて笑う。
「そう。だから君は言ったんだ。観光で見るこの国と、生活する中で見るこの国は、全く違うのよって。その通りだってことが、今ならよくわかるよ。身に染みてね」
 テレサは悲しげに、「今頃気づくなんて。バカね、本当に」と呟いた。ハーシーは自嘲気味に頷く。
「この国は、お客様へのもてなしは手厚いけれど、労働者には残酷だった。移民に対しては、尚更だ。毎日、毎日、仕事に明け暮れても、手元には僅かな賃金しか残らなかった」
「なら……、戻ってこればよかったじゃない」
 テレサの頬は、瞬く間に赤みを帯びていった。
「できなかった。君に啖呵を切って飛び出した手前もあったが、何よりも、この国の人達が従順だったからだ。日々ノルマに追い立てられる中で、誰かが辞めれば、そのしわ寄せが残った人間に行く。従順な彼らは、どんな理不尽なノルマにだって、従ってしまうだろう。それを思うと、抜け出すことができなかった」
 ハーシーの目に、うっすらと涙が浮かんだ。それを見て、テレサと、そしてアレンの目からも、涙が零れていた。
「生活費を賄うのがやっとの状況で、やがて僕らの食生活は荒んでいった。より安いものを求めるあまり、健康に気遣う余裕を無くしていた。体力も、気力も、思考力さえも日々奪われ、気が付けば、取り返しがつかない程、この体は病んでいたんだ」
 テレサは、前のめりになり、ベッドに手をついた。
「エリサは、エリサは大丈夫なの?」
「あの子は元気さ。でも、僕と同じように、この国の労働に憑りつかれてしまっている。このままここで暮らせば、心や体を病んでしまうのも、時間の問題だと思う」
「……」
 テレサは絶句した。
「だから、二人にお願いがあるんだ。エリサを、アレグラに連れ帰ってほしい。あの子に、人の温かみを教えてあげてくれないか?」
 ハーシーは枯れ木のような手で、精一杯テレサの手を握った。
「もちろんよ。あの子の故郷は、私たちの街なんだから」
 テレサが快諾すると、ハーシーはほっとしたように笑みを浮かべた。自分の病の事さえ忘れてしまったような、とても晴れやかな笑みだった。

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