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【短編小説】ヒエラルキーの牢獄 第5話

「久しぶりね。エリサ」
 テレサはそう声をかけた。だが、エリサは露骨な渋面を作る。
「今さら何? 15年もほったらかしといて、急に職場に押掛けないでよ」
 彼女には、母が感じているような感慨は、少しも無いようだった。
「急に来てごめんなさい。でも、お父さんの病状が良くない事、あなたも知っているわよね?」
「それが? もう離婚してるんだから、あなたに関係ないわよね」
 エリサは冷たく吐き捨てた。それ程に恨まれているのだと、テレサはただ、眉を顰めた。
「お母さんに冷たくしないでよ。これから僕たち、一緒に暮らすんだから」
 アレンが口を開いた。すると、エリサは表情を一層険しくさせた。
「一緒に暮らす? 冗談じゃない。てか、あんた誰なの?」
「この子はあなたの弟のアレンよ。あんたたちが出て行った時には、まだ生まれたばかりの赤ん坊だった。憶えていないの?」
 テレサの問いかけに、エリサはふん、と鼻を鳴らす。
「憶えているわけないじゃない!私だって、あの時はまだ5歳だった。それに、出て行ったって何? あんたに捨てられただけでしょ!」
 エリサは、玄関口から外へと飛び出した。ヒステリックに捲し立てながら、開いたままだった扉を、勢いよく閉める。
 バタンという大きな音と、エリサの剣幕に二人はのけぞった。
「あんたたちと暮らすなんて、絶対に嫌だから」
 エリサの眼は、頑なだった。それでも、このまま放っておくことは出来なかった。
「お願い、冷静なって聞いて。この国に、あなた一人残していくなんて出来ないわ。お父さんだって、あなたが、私たちと故郷に帰ることを望んでいるのよ」
「そうだよ。一緒に帰ろうよ、お姉ちゃん」
 二人は真っすぐにエリサの眼を見た。二人の切実な思いが、伝わってほしいと願った。
 しかし、その目に映る冷淡な眼差しが、彼女との間にある、深い、深い、溝を感じさせた。
「あの親父はね、負け犬なのよ。何のとりえもないのにこの国に来て、底辺を這いつくばっただけの負け犬!それを全部、国が悪い、社会が悪いって、責任を擦り付けて、ここにいたら私も同じ目に合うとか言ってるんでしょ? 馬鹿にするのもいい加減にして!」
 彼女がそこまで言い切ると、突然、その頬に鋭い痛みが襲った。バチン、という乾いた音が耳に響く。
「どうして、自分の父親をそんな風に言えるの。あの人がこの国に来たのは、あなたの為だったのよ」
「あたしの為って何よ!」
 バシッと、鈍い音が鳴る。エリサは即座に、テレサの頬を打ち返していた。それでも、テレサは少しも目を逸らさなかった。
「あなたが保育園の頃。運動会に来た他の子の父親を見て、あなたは羨ましいって言ったのよ。他の子の父親は漁師ばかりで、とても逞しかったから。あの人は生まれつき肺が弱くて、漁師にはなれなかった。そのことを、ずっと引け目に感じていたんでしょうね。だから、あなたにとって誇れる父親になりたくて、そのために故郷を捨てて、この国に来たのよ」
 テレサはエリサの肩を掴み、必死に訴えた。だが、
しかし、その手をエリサは思い切り振り払った。その勢いで、テレサは尻餅をつく。
「私の為? 笑わせないで!私がどれだけ惨めな思いしたと思ってるの。あんな親父、死んでくれたほうが清々するわ。もう、私に構わないで」
 エリサは最後にそう吐き捨て、中へと戻っていった。
 ガチャリ、掛けられた錠の音が、冷たく、二人の心に沈んだ。

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