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【短編小説】ヒエラルキーの牢獄 第一話

 今朝の海は、いつになく凪いでいた。顔を出したばかりの朝日が、波一つない水面に色をつける。
 アレンは、切り立った岩場から身を乗り出し、視線を真下へ向けた。
覗き込んだ視界に映る、深い紺碧。その奥から、多様な色彩が微かに浮かんでいた。
 すっと、軽く息を吸い込む。アレンは躊躇なく、その場から海へと飛び込んだ。
 空中で、腕を頭上にピンと伸ばす。海面まではおよそ5m。アレンは、指先からまっすぐに着水した。
 瞬間、高々と水飛沫が上がる。驚いた魚の群れが、素早く逃げていくのが分かった。アレンは思わず、それを目で追いかけた。
 白銀色の尾ひれが、ひらひらと水をかく。青みがかった縞模様が、線を描く様に遠ざかって行った。
 さらに深く、アレンは水底に向かって潜った。
 赤、青、黄、思い思いに着飾った魚たちが、アレンの周りで優雅に踊る。呼吸のできない苦しささえ忘れ、奥へ、奥へと手を伸ばした。
 すると、海底で何かが眩しく光った。岩の窪みに固定された、小さな木箱。その中には、数枚の古い金貨が入っていた。
 アレンは木箱まで辿り着くと、金貨を1枚拾い上げた。達成感と共に、笑みがこぼれる。
 もし、海中でなければ、きっと叫び出していただろう。
 その金貨は、いわば1人前の証。この島で漁師になるための、通過儀礼だった。
 
 陸に上がると、アレンは急いで家に戻った。
「母さん、とれたよ。やっととれたんだ!」
 アレンは、母のテレサに向かって、金貨を掲げた。それを見て、彼女は目尻に皺を寄せ、満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう、アレン。あなたなら、立派に海に出られるわ」
「本当に! やったー」
 母の言葉に、アレンは目を輝かせて喜んだ。街の漁師たちは皆、アレンにとって憧れだったからだ。
 アレンには、物心付く前から父親がいない。船の事故で亡くなったのだと、母から聞いていた。
 それでも、これまで何不自由なく育った。それは、漁師たちの手助けがあったからだ。
 父が亡くなってから、母は魚の加工場での仕事を与えられ、家計を支えるようになった。
 しかし、幼かったアレンは頻繁に熱を出し、その度に母は仕事を休まざるを得なかった。
 それでも、漁師たちは快く受け入れてくれた。そればかりでなく、余った魚を何度も送り届けてくれた。
 ある時、漁師の一人にアレンは尋ねた。
「おじさんはどうしてそんなに優しくしてくれるの?」
 すると、漁師はこう答えた。
「子供は街の子、みんなの子なんだ。だから、助けるのが当たり前じゃないか」
 以来、アレンはこの街の漁師たちを、父親のように慕ってきた。
 船に乗る彼らの背中は逞しく、とても頼もしく見えた。それはきっと、大きな体だけが理由ではなかった。この街を支える姿、生き様が宿っていたからに違いのだ。
 だから、彼らと同じ船に乗れることは、アレンにとってこの上ない幸せで、誇りであった。
「じゃあ、明日から船に乗れるの?」
 アレンがそう尋ねると、母は少し考え込むように俯いた。
「ごめんなさい、アレン。船に乗る前に、あなたに見てもらいたいものがあるの」
 何だろう、とアレンが首をかしげた。すると、母は戸棚の引き出しから、一通の手紙を取り出し、そっとアレンに差し出した。

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