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【読み切り短編】惨憺たる夢を見る

「はあっ、はぁ」

 息を荒げ、夏目七瀬は飛び起きた。また、酷い夢を見たのだ。

 首元に触れると、じっとりと汗が滴っていた。濡れた下着の感触が、肌に張り付く。彼女は不快感に眉をひそめた。

 ここのところ、毎日悪夢にうなされて目が覚める。仕事や子育てでストレスが溜まっているせいだろうか。

 いやいや、七瀬はかぶりを振った。だって、自分はこんなにも恵まれているのだから。

 彼女は窓辺に立ち、カーテンを開けた。都会を一望する絶景が、目の前に広がった。東京都港区のタワーマンション、その33階に彼女は住んでいる。

 一昨年、彼女が32歳の時にこのマンションを購入した。20代で結婚し、出産。旦那は大手の商社に勤め、自身もフリーランスのシステムエンジニアとして活躍している。時間的にも、経済的にも余裕があり、旦那との関係も良好。

 まさに、絵に描いたように幸せな家庭だ。これと言って、大きな不満もない。

 なのにどうして、と七瀬は首を傾げた。あの妙にリアルな夢。目覚めた今も、それをはっきりと思い出すことができる。

 夢の中の彼女は、今よりもずっと歳をとっていた。だいたい、40代後半だろうか。何やら金属部品などを扱う会社で、まるで小間使いのように働いていた。

 その会社で、直属の上司と見られる人物が、実に厄介な男なのだ。上司と言っても、年齢は30代半ばといったところか。彼は、ことあるごとに小言を並べる性があった。

 ついさっきまで見ていた夢の中で、彼女は用を足すため席を離れた。その後、席に戻るやいなや、その上司は「何してたの?」と問い詰める。

 いちいち聞くなよ、そう内心で毒づきながら「御手洗いに行っていました」と説明した。すると一言、「長いね」と返ってきた。彼女は、今にも吐き出してしまいそうな罵詈雑言をぐっと飲み込み、なんとか、精一杯の作り笑顔で返した。こんなやり取りが日常茶飯事になるほど、モラルにも、デリカシーにも欠けた男なのだ。

 毎日見る夢の中に、なぜかこの男は必ず登場する。その中で、性差別的な発言や、面倒ごとを押し付けられる度、夢の中とはいえ胸糞が悪くなる。

 そんな劣悪な職場環境で10時過ぎまで残業し、帰宅は深夜に及ぶ。そんな悪夢を、繰り返し見ていた。そこに働く同僚たちの姿が、ありありと浮かぶほどに。

 夢の中の登場人物たちは皆、見ず知らずの者ばかりであった。だが、夢の中で創作したにしては、あまりにも姿形が鮮明なのだ。まるで、現実に存在しているかのように。

 まさか、七瀬の背中に悪寒が走った。もしかすると、これは自分の未来を暗示しているのでないか。所謂、予知夢というやつだ。

 フリーランスとして、この先も生き残っていけるかはわからない。10年後の自分は、システムエンジニアとしては仕事が取れず、あんな会社に身を移してしまっているというのだろうか。

 それはない、ありえない。七瀬は疑念を追い払うように、激しくかぶりを振った。夢の中で帰宅した部屋は、殺風景なワンルームだった。

 そこには、旦那や子供の生活痕がなかった。旦那と分かれるなんて、あるはずがない。100歩譲って、旦那と離婚していたとしても、子供の親権だけは譲れない。

 この子のことを手放すなんて、絶対にありえない。こんなにも、この子のことを愛しているのだから。

 あれ、この子って……どの子?

 おかしいな、顔も名前も浮かんでこない。忘れてしまったの? そんなはずない。夢の中の同僚の姿は、こんなにも鮮明に思い出せるのに。

「ねえ、あなた」

 七瀬は、隣で眠る旦那の肩を揺すった。硬い、無機質な感触が手のひらに伝う。

「これ……、マネキン?」

 彼女はまじまじと、旦那と思っていたそれを見つめた。凹凸のない顔、金具でできた関節。

「なんで、どうしてっ!」

 その気味の悪さに、彼女は後ずさりした。背中に、ひんやりとした窓が触れる。

 彼女は振り向き、窓の外に視線を向けた。夢のタワーマンション、その上層階から見える景色に。

 だが、そこにあったのは、雑草の茂った路地裏だった。人通りもない、ただの田舎道だ。

「嘘っ、こんなの嘘よ!」

 絶叫する彼女の目に、窓に映った自身の姿が飛び込む。深く刻まれたほうれい線、痩せこけた頬。ボサボサで、艶のない髪。夢で見たのと同じ、くたびれた姿がそこにはあった。

「これが私の、現実……なの?」

 それならいっそ……。彼女は枕元にある小瓶を手に取り、蓋を開けた。直接口をつけ、中の錠剤を流し込む。

 幸福な夢が、二度と覚めないように。

 

 

 

 

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