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伏線の未回収が意味するもの―『アイアムアヒーロー』をもとに

今回のブログは、ワカテメンバーの平岡ゆうすけ(@hyusuke59)によるブログ記事(2018年3月9日に公開、現在は非公開)を寄稿したものです。この記事は漫画『アイアムアヒーロー』のネタバレを含みます。

筆者について

はじめに

花沢健吾氏による漫画「アイアムアヒーロー」。

かなり前に一度読んだことがあり、その時は、独特の描写が多く、ぶっちゃけ「なにこれ?」と思ってしまった。しかし、先日に漫画アプリでたまたま見つけたので、もう一度チャレンジをしてみた。

あらすじは、主人公の鈴木英雄が、ヒロイン比呂美とゾンビのような化け物たち(通称、ZQN)と戦い、必死に生き延びるという、サバイバル系かつコメディ系である。

作者は主人公をなるべく一般人のように描いている。周囲がZQNに襲われていても体調が悪いという理由で逃げ出したり、名前は「えいゆう」と書くが、実際には多くの作品で定義されている「ヒーロー」には遠く及ばない。ゆえに、読者は感情移入がしやすく、主人公の倫理的によろしくない言動に対して心の底から非難することはできないだろう。そう考えると、利己的な人間の本質が描かれているのかもしれない。

そして、この物語にはさまざまな伏線が散りばめられている。これもこの漫画の面白いところである。ZQNとは一体何なのか?比呂美はZQNに噛まれたのになぜ感染しないのか?など不明な点が多く、その全てがラストで回収されることを読者全員が当然のように期待していた。

しかし、お察しのとおり、ほとんどの伏線は回収されなかった。結局のところZQNは何者だったのか。比呂美はどうなってしまったのか。多くの疑問が解消されないまま物語は幕を閉じた。ラストは映画「アイアムレジェンド」を連想させながら、英雄が一人寂しく東京で生きていくことを暗示した結末となった。

むろん、読者は反応に困っただろう。私もそのうちの一人だった。

というのも、自分の周りにある文学作品を見ると、「伏線は回収するもの」という前提が存在すると思っていたからだ。この感覚を持つ者から言わせてもらうと、物語は不明点がすべて明らかにしたうえで終えるべきものである。

しかし、この作者は伏線を置くだけおいて、それを解説しないという選択をした。これを義務の放棄だと罵倒することもできる。しかし、私は伏線を回収しないことに何らかの意味があると感じた。

「死」と「真実」

作者が何も考えていないとしても、その未回収という行為によって、物語は読者に何かしらの意味を与える。

余談ではあるが、文学作品を題材にする場合、作者の意図を考慮することに重要性はあまりないように思える。それよりも焦点を当てるべきなのは、その作品がそれを取り巻く「ひと」に対して与える影響である。作者によって生み出された物語は、受容者に触れると同時に作者のもとを離れ、その「意味」は受容者によって変形し、結果的に彼らのものになる。

伏線の未回収と聞くと「きっと星のせいじゃない」と「三度目の殺人」を思い出す。

「きっと星のせいじゃない」で登場する架空の小説「大いなる痛み」はステージ4のガンを宣告された主人公の余生を描く。この物語も伏線は回収しないどころか、もっと酷いことに、物語が突然にして終わってしまう。主人公が死んでしまったのか、ページが半数を過ぎたころから、白紙が続くのだ。主人公が飼っていたハムスターはどうなったのか、母親は再婚したのか、主人公を失ってしまった母親は今まで通り暮らしていけるのか、知ることはできない。

これについて本編の主人公ヘイゼルは「作者は死をリアルに表現している」と言う。つまり、死は唐突にやってきて、人生にその後はない、ということだ。確かに、満足して死を迎えた者は歴史上にどれだけいたのだろうか。大半はもっと生きたいと思って死んでいったに違いない。

ヘイゼルは小説の続きを確かめるため、作者が住むオランダへ旅立つ。ヘイゼルが最も知りたいことは母親のその後だった。自分がいなくなった後も、自分の母親にはしっかりと生きて欲しかったのだ(本編の主人公ヘイゼルも小説の主人公と同様にステージ4のガンを宣告されたのだ)。

「三度目の殺人」では、殺人事件を弁護人の視点から描いた物語である。「人は人を裁けるのか」といった問いから、裁判に焦点を当てている。

この作品で監督の是枝裕和氏が注意した点は、「答えを出さないこと」であった。彼の意図は裁判のリアルを作品に表すことで、裁判は真実を追求することではなく、証拠による解釈によって判決を争うことであるからだ。ゆえに、この物語では容疑者の動機は何だったのか、そもそも本当に殺人を犯したのか、数々の疑問を残して終わる。是枝氏は現実で目の当たりにする「宙吊り感」を視聴者にも感じて欲しかったという

伏線の未回収が意味するものとは?

この三つの作品から見て、伏線の未回収が意味するものは何なのか。どの作品でも言えることは、伏線の未回収はリアルを追求した結果である、ということだ。

つまり、作者たちが伝えたいことは「現実とはこういうものである」ということなのだろう。

現実では、死んだ後のことなど第三者目線で知りはしないし、殺人現場を自分の目で見ることはそうそうないため、真実を知ることはできない。ましてやその人の動機など知る由もない。現実では、物語のようにスッキリした終わり方は皆無だ。

そのようなリアルに視聴者が触れ、強制的に思考させるよう、ある意味で未完成の形にしたのかもしれない。

かといって、現実は個々人の解釈に過ぎないので、神の視点から描く時点で現実とは異なるのかもしれない。そう考えると、これらの作品が表す「リアル」とは「リアルらしいリアル」なのかもしれない。

参考文献紹介

展開がとにかくリアルで最終巻まで一気に読んでしまいました。賛否両論多い作品かもしれませんが、僕は好きです。映画化もされています(とてつもなくグロいのでご注意を)。

ガンを宣告された少女と同じくガンを患いながらも克服した少年との物語。よくあるお涙頂戴ラブストーリーではなく、主人公たちが死と真剣に向き合い、どのように残りの人生を過ごせばよいのか、葛藤するところに魅力を感じました。映画化もされており、原作に忠実に作られています。

現実を目の当たりにする「宙吊り感」を視聴者に体感させたかったと語る、監督の是枝さん。実際に視聴した僕にも、もやもやする気持ちがありました。しかし、監督が言うように、これが必ずしも「真実」を突き止めるばかりではない弁護士の現実であり、人を裁することはどのようなものなのかをリアルに体感させてくれる映画でした。


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