見出し画像

「正しい」とは何か

僕は「正しいこと」はあると思ってるんですよ。でも、「正しい人」はいると思っていない。(宮崎駿-ナウシカ解読より)

「正しい人」はいない。それは全く同意だ。常に正解を選べる人がいたらそれこそ神だ。でもそれと同時に考えてしまう。「正しいの定義とは何か」と。

個人の見解で述べると当人もしくは他者が「それは正しい」と判断した時点で、それは「正しい」なのだ。おそらくは大きく

「正しい」
「正しいように見えるけど判断保留」
「よくわからないから保留」
「正しくないように見えるが保留」
「正しくない」

ぐらいの段階で当人、他者は認識していると思う。当人が「正しい」と口では言っても不安を押し隠していることもあるし、「そうだね」と言いつつ決めきれない人もいるだろう。

そして、弁が立つ人は雄弁や説得により、「正しいのでは?」から「正しい」に変節する他者もいたりする。そして多数の「正しい」は常識というモノに変わっていく。

先日、東浩紀さんが「SNSの台頭により人は考えなくなった」と述べていたが、個人としては違う感覚を持っていて、他人の言質に刷り込まれやすいマスまで利用するまで、ネットツールが一般化したに過ぎない。

考えることは多大なカロリーを使うわけで他が忙しいと「そこまで頭が回らない」というのが一般的な感覚だ。諦めず粘り強く「これは果たして正しいのか?」を考える、考え続けれる人は残念ながら多数派ではない。そしてネットにより一般層が可視化されたのが今だろう。

恐ろしいのはネットが一般化したこの時代、詐欺師のような言質で「その人の正しい」を扇動することが容易になったことで、簡単に変な方向に導くことも可能だ。そしてその正しいの多くは自己中心的で、近視的なことになりやすい。

というのも壮大なビジョンでは、その日のご飯は食べられる訳ではなく、今日の生活にだけフォーカスすれば、今の事態も「さもりなん」なんですよね。そして、次の世代に大きな借金を作り続けている。

これは個人の肌感覚なんだけど、幕末の時代感ってこういう状況から若手が出てきたのかなと感じている。現状自分の世代が「詰み」という中、自分の信じる正しいを持って動かないと後がないわけで。残った僕らは大変革の中、捕食されるのかどうなのか苦笑

後世の正しいは、どこへ推移していくのか見守るしかありません。

お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。