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すでに日本は姨捨山になっている

記事を読んでいて欧米に右に倣えはどうか?日本における自由があいまいな国に安楽死を導入するのはどうか?その意見は理解ができる。

けど、ここ数年終末医療と介護を経験した立場からすると座学の情報と当事者の距離は驚くほど違いがあることに気づく。

まず癌とか健康を蝕むものもこの10年の間驚くほど新薬や新しい医療技術によりまあ復活するケースが増えて来ている。けど、どれだけ費用をかけようが、もう打つ手がないという状態になると個人差はあるけど階段を落ちるように身体の機能が劣化し、癌の場合痛みとセットでやってくる。

医療麻薬の発達で痛みが緩和してるように見えるが、実際には個人差があって麻薬が少なすぎて激痛に苦しむとかは多い。それを見る家族は耐えきれず病院に入れるが、病院は基本現状の法令に沿って機械的にこなすだけだ。

あと、ありがちなのは家族の生きていてほしいが無駄な点滴となり、異常なむくみなどとの戦いになる話も聞く。また今の病院の多くは多数の患者の面倒を毎日見ている。まあまともな感覚なら感情を殺して日々機械的にこなすようになっていくのもわからなくはない。そして大病院を辞めて個人病院に移る看護師も多いと聞く。

尊厳死の議論であるのは、自分の意思で生き死にを決める話だが、日々の激痛が続く中「この痛みが続くのが耐えられないから」とというのは尊厳なんていう綺麗事じゃなくてもう少し生々しいものだ。感覚的にはメンタル的に病んでしまうことに対する自死の感情だ。自分は在宅介護を経験して分かったことだけど、家族内で介護をすると「いつまでこの生活が続くのか」という感情も出てくる。相互で嵩上げされるメンタル悪化の負のスパイラル。

そして一方医者の方も実は医療麻薬の量を一気に増やすと心臓が持たないことを知っている。だからこそ医者はルールに基づき処方を決めている。けど本来健康を取り戻すことを誇りに持つ医者としても「ただ死期を後ろにしているだけ」というにすぎない。本人の痛みを解放する術を知っていても当然その打ち手は使えずメンタルを壊していく。

少なくとも言えるのは、人の行き死には、当事者の場合と今回取り上げたような客観的な議論では大きく違う。そして一旦施設に入れた家族と実際に介護している場合も別だ。よく施設に入れた家族は両親の延命を望む。それは本人の辛さを24時間見なくなったからこそ問題の深淵を見なくなるためだ。すでに現在の終末医療自体が姨捨山になっているのを無視しているように見えてしまう。

いやわかるんですよ。法改正によって本人が望まない死の可能性に対するリスクを提示していることは。けど、今この瞬間も本人や医療関係者が望んでいない状態が発生していることの理解も必要だし、本人や家族、医療関係者とそれ以外は見えるビジョンが違うことは頭の片隅に置かないとと思うわけです。
(本記事は自身の数少ない実体験からの情報なので事実と異なる場合はお詫びいたします)

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