輪郭のある夜
疲れていて眠いはずなのに、妙に目が冴えてしまう夜。前の晩までと違うのは、その輪郭の濃さかもしれない。
さまざまな意思が集まった場所から離れて、3ヶ月ほど経つ。ひとりの時間が多くなると、自分の輪郭がぼやける日が増えた。
ひとり暮らしではないので、ほんとうにひとりの時間は少ない。それでも、1日の多くの時間をともにしたさまざまな意思というものは、不思議と自分の輪郭に影響を与えていたのだと気づいた。
その場所を離れる前、自分の輪郭はどこか遠い場所へ行きたがっていた。
安全で、きちんと呼吸のできる場所。心までとはいかなくても、少なくとも淡々と身を養える場所。
それらが遠くて、ぼんやりかすんでみえていたように思う。
とても安全になったし、呼吸はできるようになった。深く深く、何度でも。
その一方で、自分を形づくる輪郭は日々溶けていく。溶けて再び形をつくるのか、なかなかわからない。
輪郭をもたないのは悪いことのように思えて、居心地がよいとは言いがたかった。
しかし「呼吸を手放してはならない」という赤い標識もあちこちにみえる。
輪郭が溶けたものの中に身を置きながら、その再凝固について考えていた。
久しぶりに会うひとつの意思が、鮮やかな輪郭を放っている。
その意思はとても疲れていて、痛みをもっていた。そして怒っていた。私の知らない、その意思が関わらねばならない数々の意思について、怒りとやるせなさを抱いていた。
ふだんは、怒っている意思が苦手だ。その濃すぎる輪郭に触れたくなくて、気づかれないようにそっと離れてしまう。
目の前の意思も怒りとやるせなさで、鮮やかな輪郭を形づくっていた。しかしそれは私を惹きつけ、そばに近寄らせた。触れずとも、その動きを感じられるのだった。
鮮やかな輪郭をもつ意思に手を振り、別れてからも、私がみたものは色あせなかった。
意思と意思がぶつかったり、力を加えられたりすると、双方に輪郭が生じるのだと思う。
どこまでがひとつの意思で、どこからがまた別の意思なのか。それは互いが出会ってみないとわからない。
それぞれの意思が自分の道をころがり、進んでいく。道すがら、さまざまな他の意思に出会う。会釈で通りすぎるものもあれば、突進してくるものもある。
「なぜころがり、なぜ出会うのか」と問うことに意味はない。強いて言うならば「互いが輪郭をつかむために…」だろうか。
ころがっているときには、どうやってころがっているのかわかっていない。何かにぶつかり、へこんだりふくらんだりしながら、それは形になっていく。
不思議なのは、形づくられた自分の輪郭について正確に説明する機能は、セットでついてこないということだ。
輪郭をなんとなくつかめてはきても、意思が説明しようとするとそれは逃げて溶けたり、再凝固しようとしたりする。
それはきっと、意思が望む「理想の輪郭」があるからではないだろうか。
意思は、ころがって作られてきた輪郭にとても厳しい。そんな形になるのはゆるさない、と時に自分の輪郭へ拳を振り上げる。
本当は滑らかで美しいカーブを描くはずの箇所が、角ばっている。そんな設計ミスを意思はゆるさない。意思にとって「理想の輪郭を作れているかどうか」は、大切な問題だからだ。
意思は、原因をさがす。
あの時のころがり方が良くなかったのではないか。あるいは、すれちがいざまにぶつかってきたあの尖った輪郭の意思が悪かったのではないか。それとも設計図が甘かったのだろうか。
意思は頭が良いので、輪郭の良し悪しに関して冷静に対処する。そしてころがり方を再検討する。
今度はこっちにころがってみるんだ。もし道が暗かったらあっちの道だ。
このようにして、意思は説明のしやすい「理想の輪郭」になるよう、日々自らをころがしていく。
輪郭が溶けてしまうと、意思は焦る。輪郭がないとうまくころがせなくなるので、そんな自分が情けなくなる。
なんでもいいから形がほしい、またころがりたい。
そんなときに、鮮やかな輪郭をもつ他の意思がころがってくる。2つ3つ言葉を交わすとその意思は離れていくが、輪郭の溶けていた意思は、少し形を取り戻している。
こんなことの繰り返しで、意思は生きているのかもしれない。
輪郭が溶けては焦り、自力で再凝固することもあれば、他の意思と出会い、その輪郭に引っ張られて自分の輪郭を取り戻すこともある。意外な言葉で、はっとすることもある。
ここいい形してるね。私のとは違うけれど、それもうらやましい。
設計図通りでないことを嘆き涙を流していたのにもかかわらず、予期せぬ出会いに影響を受けて、意思はあっさりとまたころがりだす。
意思は、他の意思にかかわることで輪郭を保てるのかもしれない。
生きている意思、もう生きていない意思。どちらであっても、それは他の意思に影響を与える。
意思がころがってきた道はそれぞれの物語であり、輪郭の形や濃さはさまざまだ。輪郭が溶けて休憩中の意思、途方に暮れる意思、そういったものもある。網の目のようにはてしなく広がる道で、無数の意思たちがそれぞれの物語をころがっていく。
顔を合わせられる意思の数には限りがあるから、他の素晴らしい輪郭の意思に出会いきれないことを嘆きたくもなる。
でも意思は、自分がころがっている道にいるものだけではない。「文学」という別の網の目に点在している意思も、無数にある。「映画」や「舞台」、「漫画」など、網の目は贅沢に取りそろえられている。
同じ網の目にいる他の意思の輪郭を直視できないこともある。意思は頭が良く自分に厳しいが、心は複雑なのだ。いろいろな網の目を行ったり来たりして、のろのろと自分の輪郭を再形成することだってある。時間がかかったわりに美しくない、と肩を落とすこともある。
それでいい。輪郭が溶けたり逃げたり、はっとしたり。意思にはどうしようもないことが度々起きるものだと、少しずつ理解していけばいい。
ころがるのか、ころがされるのか。そのちがいも明確にはない。理想の輪郭を作るぞと息巻いていた意思は、ある日あっけなく消えるかもしれない。そんなにも不確実で、あいまいな世界を生きていくのだ。
ころがっていく先で何が待っているか、わからない。「わからない」ということがころがること、ともいえる。とはいえ、ころがった先ですべてを受け入れる必要はなく、危機感を覚えたら全力でちがう道にころがっていきたい。息を切らせころがっていった新しい道で、想像もできない美しい景色が広がっているかもしれないのだから。
輪郭を濃くしたり薄くしたり、形を変えたりしながら今日も意思はころがっていく。
ただそれだけでいい。輪郭のある夜を過ごして、ない夜も過ごして、のろのろとでもどうにかこうにかころがっていければ、それでいい。
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