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The Future Changes The Past

映画「マチネの終わりに」を観た。

一人で映画を観に行くのは、数年ぶりの2回目だ。たぶん一人で観た方がいい、という映画はそんな予感があるから間違えない。

それほど、原作に心を貫かれた映画というものは感想が言葉になるのに時間がかかる。

原作を読んだ時、あまりの痛みに一読しかできなかった。

読み終わった本は何度となくぱらぱらとめくるものだが、1ページも読み返せず、こわいものを扱うかのように本棚の奥にしまったままだった。

蒔野と洋子がどれほど互いを理解し合い、また一方で理解しないまま大切に想い合っていたか。三谷早苗の大それた行動が、彼女自身を含め何人もの人生を変えてしまったか。彼女が抗えなかった気持ちに、憤りや嫌悪感を抱きつつ、どこかで完全には否定できない居心地の悪さがあった。

映画になると聞いて、あの二人の想いの強さ、早苗の「人生の目的」を文字通り映像として目の当たりにすることになるのか…と身震いした。

原作どおりなら、過激なテロのシーンもある。人々が皆、不確実性の中に生きているということを感じざるを得ない筋書きも、私にとってはこの物語をより一層近づきがたいものにしていた。PTSDに苦しむ人間を見つめることが、私にはできない。恐らくそれは自分の共感性が問題なのであろう。自分事ではないのに、誰かがフラッシュバックに怯え葛藤する姿は身体的な痛みとなって自分にも移る。医学的な根拠は全くないが、PTSDに関することを考えただけで動悸と頭痛が止まなくなってしまう。

それでも、あの小説を読んだときの別の感情や、繊細かつ厚みのある描写を忘れることもできなかった。人物たちの喜びや哀しみを傍らで見守っているような感覚、作者と読者とが暗黙のうちに了解がとれていることを感じさせる数々の描写や、反対に「私には難しい」と目を懲らして読み進めた文章を。読むにはかなりの体力が必要だと感じたのがあの物語の第一印象、読み直すのには相当の精神力が必要だと感じたのが第二印象。またあの世界に浸りたいと感じる一方、やはり読むことに対してのハードルの高さがそのまま映画にも同じ気持ちを抱かせ、公開間近となってからも積極的に観に行こうとは思えないでいた。

しかし結局私は、人に流されやすいのだと想う。

原作を読んでいる人から「また観に行きたいぐらい、すっっっっごく良かった」という言葉を聞き、心が大きく揺れ動いた。「すごく」ではなく「すっっっっごく」なのは、特別なことなのではないか。原作を読んでいる人なら、期待度も高く、安易に「よかった」とは言わないのではないか。

石田ゆり子さんが原作を大事に思っていることもエッセイかなにかで知っていたので、きっと石田さん自身にとっても特別な作品になったにちがいない。それならば……勇気を出して観に行こうか。いや、観に行きたい。

そして期待と不安を持ちながら観に行ったのが今日。本当は昨日の仕事後に行きたかったが、頭痛が重く、映画に集中できなくてはもったいないと思い翌日に変更した。

123分の映画「マチネの終わりに」は、素晴らしい物語だった。

役者が誰であるか、どんなベテランであるかということはまったく気にならなかった。いや、主演のお二人は、もちろん素人の私などは表現する言葉も思いつかない奥行きのある演技をされていて、だからこそ味わい深い映画になっているということは間違いがない。

そういうことではなくて、「福山雅治だから、すごい。さすが福山さん」といった「役者の色ありき」のものではなかった、と感じたのだ。福山雅治さんの色、石田ゆり子さんの色で成り立っているというわけではなくすべての役者さん、すべての関係者の方々の作品への敬意が根底にあると感じた。

なにより脚本は「見事」という言葉に尽きる。

あの原作小説を映画の123分にすることは難しいのではないか?冒頭のシーンからそこが気になっていたが、見終わってなるほどとため息が出た。

小説が表現できるものと映画だから表現できるものは異なる。それぞれの強みがあるはずだが、この映画は原作を最大限理解し、だからこそ「削ぎ落として」いる。

この削ぎ落とし方を間違えると、きっと原作ファンが「原作のほうがよかった」と悔しがるのだろう。しかし、映画「マチネの終わりに」は映画だけを観た人も、原作を読んでから観た人もその魅力を味わうのに十分な厚み、そして余白がある

小説には映画に登場しない人物もいるし、小説と映画で描かれ方がちがう人物もいる。主役の蒔野と洋子だって、どこかちがうのかもしれない。けれど「映画は原作に対して、完全に忠実である必要はないのだ」と気付かせてくれる。いや、そもそも、「忠実=同じ」という考え方自体が正しくないのかもしれない。私自身が感じたことをなんとか言葉にするのならば、この映画はあの原作に対して、すごく忠実な作品だ。しかし「同じ」ではない。

脚本と並んで、私が心を奪われたのは三谷早苗という人物だ。

観る前は、映画で彼女を観るのがこわかった。どんなに嫌な気持ちになるだろう、と身構えていた。

それがどうだろう。緊張が一番高まるはずのシーンで、私は呆然としていた。嫌悪感でも、憤りでもなく「共感」という2文字を胸に。

洋子が蒔野と結ばれようとしている。それを覆せるかもしれない方法が、自分の手にある。そんなことばかげている、人としてどうかしている。

けれど。

結局彼女がしたことは、やはり酷いことだったと思う。したことは変わらないのだ、映画であっても。

それなのに、映像で見る三谷早苗は、「この人も1人の人間だ」ということを不思議と私に思い出させた。ティーンエイジャーの頃から活躍する天才ギタリストでもなければ何カ国語も操る知的なジャーナリストでもない、ただのマネージャー。蒔野がドラマの主人公だとしたらその「名脇役」として陰に日向に彼を支える人間。

そんな彼女が洋子を見て抱く感情は、今の私には否定できなかった。むしろ彼女が取った行動は、そうせざるを得なかったのではとすら思える。

これが映画の力なのだろうか。早苗や洋子の表情が、こんなにも変えてしまうのだろうか。観客の感じ方を、人物への解釈を。

解釈などというのはおこがましい。人は誰であれ、誰かを解釈することなどできない。できたとして、それはそういう気になっているだけだ。

映画では自分の感覚が鈍感になった、とは思えない。小説は当然、繊細で抽象的な表現が早苗の心理を描く。映画では、早苗は桜井ユキさんによって描かれる。桜井さんの演じた早苗を見て、自分の心にどんな変化があったのだろう。

1つ思うのは、小説ではあくまで「心理」としての早苗を読んだのに対して、映画では「人間」としての彼女と出会ったからではないかということ。

心理、あるいは概念といってもいいが、小説での早苗は私にとってそういう形をしていて、忌むべき存在だった。今思うと、洋子に肩入れして読み過ぎたのかもしれない。しかしやはり彼女の行動は許し難かった。

それが今日の映画で目にした彼女は、妙に生身の「人間」だという感じがした。蒔野や洋子やリチャードや、すべての登場人物の中で、桜井ユキ演じる三谷早苗が一番、生身の人間だという感じがした。

ある心理、概念に対して憤ることはいくらでもできる。正しさを武器に、問い詰めることもできる。しかし、それが宿った人間となると、なぜ共感する部分が出てくるのだろう。生の人間だからこそ、一層許せなくなるのではないのか。だから私は、この映画を観るのが怖かったのではないのか。

わからないが、小説と映画とで一番感じ方がちがったのは、三谷早苗に抱く気持ちだったことは間違いない。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

映画でも軸となる、過去と未来に関する言葉。元々は洋子の祖母の話について蒔野が言った言葉だが、蒔野と洋子の関係性について、また蒔野と早苗の関係性についても言える言葉だ。

この作品が、いわゆる大人向けなのはきっとここにも理由がある。

たかだか20代半ばの私が言うのもなんだが、さまざまな「記憶」が積み重なっている年齢の人ほど、あの言葉が刺さるのではないだろうか。

「自由意志というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね?しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある」

これは小説に出てくる洋子の父、イェルコ・ソリッチの言葉。

人は未来を、変えられる。そういう考えは、自由意志を信じるうえで希望になるが、過去に目をやれば悔恨の根拠にもなる。あのとき、何かできたのではなかったか、なぜできなかったのかと自分を責める材料にしてしまう。

ほかにも延々と引用しながら「過去」と「未来」について思いを巡らせたいところだが、まだ自分も整理がついていない。

しかし過去と未来について、そして今をどう生きるかということについて考えるのは、この作品がくれるギフトを丁寧に受け取って毎日磨き続けるということにほかならないと思うのだ。

また、映画作品を知ってしまってからは原作に対する感じ方も変わってしまう。物語を再読しても、もう以前と同じには見えなくなっているだろう。

劇場が明るくなってから、こんなにも静かな気持ちで立ち上がった映画はほかになかった。

今はまだうまく言葉にならないが、きっとそのうち形になるだろう。そんな予感のある映画だった。そしてそこからまた年月が経って、様々な経験をするうちに言葉はさらに醸成されていくだろう、とも。

多様な感想・意見の出るであろうあの作品を、この目で、耳で、全身で観ることができて本当によかった。

未来は常に、過去を変えている。

そう知った今これから、自分に何ができるのかを考えていきたい。

クラシックギターの優しく深い音色を聴きながら、私もまた進もうとしている。


#マチネの終わりに #映画感想 #映画鑑賞








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