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「死にたい」は「何も感じたくない」だろうか。

少し前に、ふと気になったことがある。

「死にたい」っていう気持ちは、どんな気持ちなんだろう。

先にメモしておくと、いま私が「死にたい」と思っているわけではない。私は生きたい。

ただふと、誰かつらい状況にある人のことを考えている時だったと思う。誰だか思い出せないけれど。

その時、「死にたい」と口にしたり、心の中で思っている人が、どうしてそう思うのかを考えていた。

たとえばものすごく借金があって生活が苦しくて、それが自分自身のせいだとして、家族も影響を受けているとする。

そういう状況にある人が「死にたい」と思ったとする。そして仮に、自死を選んだとする。

周りの人は、どう思うだろう?

「死ぬほど辛かったのね」
「家族への罪悪感に耐えられなかったのね」
死を選んだ理由をこう考えるかもしれない。

でも、「死にたい」という気持ちはもう少し違うものを求めているゆえに生じると思う。
「つらいから死にたい」は、接続しているようで接続していないと思う。「罪悪感に耐えられないから死にたい」も。問題と解決方法が対応していないというか。

ほかには、愛する存在に先立たれて…という場合を考えてみる。

愛する存在がもういない。死に別れてしまった、あるいは二度と会えなくなってしまった。

その時「生きていてももう意味がない」というような想いがひとつ、あるとする。

この場合って、物理的に肉体の生命活動が停止すること、つまり文字通りの「死ぬ」を願っているわけではないと思う。

「ああ、もう心臓が止まって生命活動が終わればいいのに」というふうに感じているわけではないだろう。

愛する存在が自分とともにいない状態、そこからくる寂しさや空虚感、場合によっては悔しさなど。
いろいろな感情がいろいろな形で押し寄せる。

もしかしたら人が「死にたい」と思う時、この「押し寄せる感情」から逃れたいのではないだろうか。

つまり、「死にたい」の正体は、
「もう何も感じたくない」なのではないか。

感じたくない感情が、波のように押し寄せる。それは罪悪感だったり孤独感だったり、もうどうしようも解決できないという焦りだったり哀しみだったり。

嬉しすぎて死ぬ、という行動は今のところ聞いたことがないのだが、仮に「嬉しい」という感情から逃れたい人がいる場合、「死にたい」と思う可能性はゼロじゃない。

あるいは孤独や哀しみといったマイナスの感情が押し寄せてくるあまり、今後生じるかもしれないプラスの感情も含めて、もう感情というものから逃れたいと思うのかもしれない。

そう考えた時、ふと思った。
「死ぬ=何も感じなくなる」と考えている人がきっといるのだろうと。

何も感じないって、なんだろうか。
何も感じていないかどうかは、どうやったらわかるのだろうか。

なんだかややこしくなってしまったが、つまり「死にたい」と思っている理由が「もう何も感じたくないから」だった場合、「死んでも感情はなくならない」という前提をもつかもたないかで、死を望むかどうかが分かれるんじゃないか?ということ。

死んだって、感情はなくならない。
そう考えるとしたら、「何も感じたくない」のために「死にたい」と願うのは意味がないというか、解決方法にはならないとわかる。

全然まとまりがつかないけれど、人は生命活動の終わりを願うんじゃなくて、「感じること」から逃れたいゆえに「死にたい」と思うんじゃないかという仮説でした。

「死」ってなんだろう?
「死にたい」ってなんだろう?

自分の心の状態とは関係がそこまでなくて、
それでもこういうことをぼんやり考えることがあるんだな、と思うのだった。

#エッセイ #コラム #死 #とは



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