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生きることは、新たな問いを立てること。

続けること。

人間関係、仕事、趣味。

継続という言葉がよく似合う、さまざまな話題。

何かを「続けるかどうか」で悩む人は多いのではないでしょうか。

ふと思います。「続けるのが正解か、やめるのが正解か」で語られることがあまりにも多いのではないか…と。

続けたからには『そうして良かった』と思えた方が当然嬉しいし、続けなかったとしても『そうして良かった』と思えた方がやっぱり嬉しい。

つまり、なるべく後悔したくない。

失敗を避けたい気持ちが、『続けるかどうか』という問いを生むのだと考えています。


その選択に、意思があるかどうか。


cotreeさんのCOO、CN(note)Oとしておなじみの、ひらやまさん。

今日「続けること」について考えていて、この投稿を思い出しました。


ここにはひらやまさんの持つ『軸』のようなものが、静かに凝縮されているように感じます。


現実を自分なりに捉える「姿勢」と、自らの「意思」で選択をすること。その2つが問われていると思いました。
姿勢とは、目の前の現実をどのように捉えるか。同じ状況を見ても一人ひとり感じ方が違う中で、自分はその状況のどんな側面に光を当てるのか。人に向き合う場合で考えると、その人の何を信じるかということかもしれません。
「何をしたいか」「何をしたくないか」など、色々な角度から自分の意思を照らすことで、自分の気持ちの解像度を上げることができると思うのです。

語られることの多い「意思」や「姿勢」ということばが、ひらやまさんによってほぐされながらも鮮やかになっていきます。


”意志”の前に、”声”を聞いてみる


続けるにせよやめるにせよ、「なんとなく」ではのちのちつらくなります。

ただそのときは「なんとなく」でしかとらえられないとしても、それはそれでヒントなのだと思うのです。

考えても見えてこない姿勢。見えてこない意思。もしかしたら「見たくない、見てはいけない」という”意思”があるのかもしれません。

抑圧されている。
人と自分の境目がわからない。
自分の存在がわからない。


こんな状態のとき、「今わたしは、本当にここにいるのか?」と問いたくなります。


意思を持って選択している実感がないとき。
まずは自分の”声”だけ聞いてみるようにしています。

もう疲れた。
もっと進みたい。
必要とされたい。


「これからどうするか」はわからない。それでも、その手前にある小さな声に耳を澄ませる。

そうすると、解を見つけなければいけないと思っていた「問い」が、そもそも絶対のものではないと気づくかもしれないのです。

重要なのは、「続けるかどうか」なのか?

もしかしたら、ほかに考えるべき問いがあるのではないか。


与えられた問いには、与えられた解しか見出せない。必要なのは、自分の内側から聞こえる声を聞き、問いを立てなおすこと。

そんなことを考えています。


新たな問いを立てる

「続けること」の前に、「問い」について考えずにはいられない記事がありました。

人間関係、仕事、組織、災害や事件…何についてであっても、私たちはそこで、さまざまな「問い」と接しています。

ただ、発信する側の行為を問題視することはあっても、それを受ける側、読み手の態度について議論がなされることはまだ多くありません。


『遅いインターネット』著者の宇野常寛さんは記事のなかで、このように語っています。

良質な情報を提供することは前提として重要だ。
だが、それがどれほど周到に、慎重に取材され、精査された結果として発信された記事であったとしても、それを受け止める読者が育っていなければ、目に入れたいものだけを目にし、信じたいものだけを信じ、発信する快楽に身を任せてしまうのであれば意味はない。

発信者が良質な議論を生むのではないのだと思います。むしろ宇野さんの言う『それを受け止める』読者によって、発信の受け取られ方が変わり、発信側が想定した以上に幅のある読み方が生まれるのではないでしょうか。


宇野さんの以下の言葉を理解しようとすると、「発信する=活発である」「反応する=きちんと考えている」という見取られ方は、あまりにも乱暴だと気づきます。

そして価値のある情報発信とは、YESかNOかを述べるのではなく、こうしてその対象を「読む」ことで得られたものから、自分で問題を設定することだ。
ある記事に出会ったときにその賛否どちらに、どれくらいの距離で加担するかを判断するのではなく、その記事から着想して自分の手であたらしく問いを設定し、世界に存在する視点を増やすことだ。

発信された問いにYESかNOかで思考するのではなく、その間、あるいは外側にある視点を示すこと。自らが次の問いを立て、考える場を生むことが必要なのだと強く感じます。

『世界に存在する視点を増やすことだ』という言葉は、忘れがたい道しるべになりそうです。


生きることと、「問い」の関係

この先もわたしが影響を受け続けるであろう記事をご紹介しながら、「問い」について書きました。

生きることと「問いを立てること」は、ほとんど同義だという気がしています。

与えられた目の前の問いに答えを出す、そんな局面もあるでしょう。

それでもチャンスを見つけて、どうにか自分で問いを立て、生きたい物語を生きる必要が、私たちにはあります。

それは人間の「意思」や「姿勢」がそれぞれちがうからこそ、そうしなければ生きていけないようになっている。そんな気がするのです。


あなたは、どんな問いを立てますか。

私に必要な、あなたに必要な、大切な問いをもてる日を喜びたい。

そう思いながら、また迷ったり悩んだり、豊かな1日を過ごそうと思います。

















読んでくださってありがとうございます!