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未知のものに向き合うために

●自己紹介に代えて

はじめまして。
私は、なるべく多くの人にわかりやすいようにと、終活ジャーナリストを名乗っていますが、私自身は自分の仕事は編集者だと思っています。
編集者とは、「本や雑誌を作る人」、今でしたらWEBサイトの企画運営なども仕事内容に入るのかもしれません。
しかし私はもっと大きく、「形のないものに形を与える仕事」と理解しています。

そんな思いを抱きつつ終活ジャーナリストを名乗りながら、私自身は、約8年前より死をテーマに仕事をしています。
なぜ死なのか。その大きなきっかけは夫を亡くしたからですが、詳細は追々書いていくこととして(こちらもご参考いただいてもいいと思います)、このnoteでは1つの試みというか提案をしたいと考えています。

●「未知のもの」に際した時に

この世に生を受けてから、人はさまざまな人生を歩み始めます。両親との出会いはもっとも始めにあるものとして、友人、先生、仕事仲間、恋人、人生のパートナー、子ども……さまざまな出会いがあり、さまざまな出来事を通して、さまざまに学び、さまざまに考え、さまざまに何かを得て、年を重ねていきます。その長さも人それぞれです。
しかし、唯一、お金があろうがなかろうが、若かろうが年を取っていようが関係ない、公平で、しかも100%決まっている未来があります。

それが「死」です。

でも、死にまつわることは、忌避的でありタブー視されていることもあって、なかなか正確には私たちのところには届きません。もちろん、私たちも「正確に理解できるか」と問われたら、YESとはなかなか答えられないかと思います。
また死は、この世には誰も経験した人がいない未知のものだとも言えます。

では、死に際した時、言い換えれば「未知のもの」に際した時、人はどうなるのでしょうか?

「なかったこと」として、過ぎ去るのを待つこともできない。
どこかに答えがあるのではないかと探しても、たどり着くこともできない。
怒っても、人のせいにしても、それからは逃げることもできない。
自暴自棄に好き勝手やってみても、状況は何も変わらない。
いろいろな人がいろいろなことを言ってきて、自分の中で混乱が起こって整理がつかない。

なかなか苦しい状態です。
私は、亡き夫がこういう事態に陥ったこと、私自身もそうなったこと、そしてそこから変わっていったことを通して学び得た死への対し方を、どうにか形にして皆と共有できないかと、この8年を過ごしてきました。

●竹之内裕文先生との出会い

そして今から4年前の5月の終わりに、一人の哲学者と出会いました。
「立派な哲学者が何を言っているのかなんて、何の興味もない。でも、死に際した時の苦しさに向き合うには哲学が何かの鍵を握っているような気がする。哲学の“使い方”を教えてほしい」と、初対面なのにひどく上から目線でお願い?しました。正直言うと、死のことを語る“専門家”の存在に辟易としていたからです。
その哲学者は、「哲学の使い方? なるほどねえ」と言い、そこから約2年をかけて、私に教えてくれました。文字通り、「哲学する」という行為を通して。

その哲学者、静岡大学の竹之内裕文教授は、今や、私の哲学の先生であるとともに、友人でもあります。
そして、死、あるいは未知のものに際した時の、答えのない苦しみへの向き合い方や対立の解決方法として、「対話」の力が大きな支えになるだろうという思いをそれぞれの立場から共有しています。

このnoteでは、哲学者と一般人との往復書簡のようなやりとりを通して、ネット上での「対話」を試みたい&読者の皆様にも「対話」を提案したいと思います。
とはいえ、自分の哲学を深く探究している哲学者の“胸を借りる”ことになりますので、まずは私の個人名のアカウントで始めさせていただきます。

竹之内先生、いかがでしょう?
まずは、対話のテーマを対話で決めていけたらと思います。私からは、本稿のタイトルに書いたように「未知のものに向き合うためには、何が必要なのか」を提案したいと思います。

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