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和歌への情熱で道を拓く ~和歌大賞への挑戦2年目の転機~

「どんなに私が和歌を愛し、その実力を付けたとて、現代日本に和歌の雑誌や大会なんてない。歌の世界で評価されようと思ったら、不本意でも現代短歌業界で戦うしかないんだ……」

そのように思い込んでいた私、梶間和歌に

「和歌の大会、ありますけど……」

と示されたのが、和歌部門を持つ「隠岐後鳥羽院大賞」の存在でした。


まず【1記事目】を読んでからこちらに来てね。



和歌への情熱で道を拓く ~和歌大賞への挑戦2年目の転機~

和歌業界での実績を以て……

ブログをはじめとした地道な和歌活動の結果、2021年、和歌のオンライン講座「歌塾」講師という誇らしい肩書が出来ました。この無名の歌人に。

「現代短歌の世界で評価されなくても和歌活動はできるし、正直困らないな。もちろん、もっと活躍できるに越したことはないけれど……。
 そもそも現代和歌と現代短歌は別のジャンルなのだし、あちらで無理に評価を求める必要はないわね」
と少しずつ考えが変化し、年数回の短歌新人賞への応募は「数十首の連作を完成させるため」「連作を編む筋力を落とさないため」などを目的とするように。

現代短歌業界で評価されることが重要なことでなくなり、余計な力が抜けたためか、短歌雑誌からの作品や評論の原稿依頼も以前より増えました。有難いね。


そんなわけで、あってもなくてもどちらでも構わなくなった現代短歌業界での評価、そしてキャリアですが、歌友佐佐木頼綱さんに提案された

現代短歌ではなく和歌の大会で結果を出し、その実績で信用を得て仕事を増やす

というルートは、和歌、短歌とジャンルを問わず考えておいて損でないわけです。

そもそも和歌も短歌も、「業界」と呼べるほどの市場が現代日本に存在するのかどうか微妙なくらいなのですし(おっと誰か来たようだそろそろ黙ろうか)、
自分のスタンスとして「私の詠むのは現代和歌。現代短歌ではない」と明確であり続けさえするならば、活躍の場は少ないより多いほうが良いでしょう。


短歌の世界は、ちょっと、私には理解できない評価基準で運用されているらしく、数少ない歌友を除いて私の和歌作品を積極的に評価する声はない。

しかし、現代短歌に距離を置きつつ和歌を愛する仲間との出逢いは、こんにちまでにいくつもあって。
その和歌のほうの歌友には、私の歌論やスタンスだけでなく和歌作品そのものが確かに評価され、愛されています。

また、人の言う「令和の定家」はさすがに過大評価だとして、定家の精神を尊敬し、実兼や伏見院、永福門院、光厳院の精神を現代日本において、作品と人生で体現しようと努めている、
これは和歌界、短歌界どちらを眺めてもそこそこの独自性になるでしょう。
言うまでもなく伸びしろは無限大とはいえ、現状の和歌作品に私自身自信を持っています。

現代短歌業界の構成員全員が現行の価値基準で生きているとしたら、私が和歌の世界で評価されたとて短歌業界では何の価値も持たないでしょうが、必ずしも全員がそうとは限らない。
和歌の大会で何かしらの……できれば一等の賞を取り、その実績を以て、和歌界ではもちろん、現代短歌界のほうにもキャリアを築く。
私になら、不可能じゃない。やってみよう。


そんな決意とともに(締め切り約十日前に)令和4年の和歌大賞「松」の題に向き合い始め、(約十日で)完成させた2首のうちの1首が、有難いことに入選の栄誉を頂いたのでした。
このあたりは前回の記事を見てね。

その結果に自信を増し、翌年を見据えつつ黙々と勉強し、2023年(令和5年)、いよいよ募集開始の知らせを受けました。
この年は締切が7月でなく10月末でしたが、募集要項を見て驚愕。


題が秋浦あきのうら……ですと……!!!?


難題にヒヨって先延ばし

「秋浦」題。

これは、難しい。
まず先例がすぐに浮かばないのでそれらを調べなければならないうえに、調べ方の難易度が「橘」とか「月」とかと比べてうんと高い。


題は「松」ですよ、「橘」ですよ、ということであれば、たとえ先例を知らなくとも「松 和歌」などと検索するなり、然るべき書籍で「松」の項を引くなりすればよいのです。

しかし、「秋浦」。
歌のなかに「秋の浦」の語の入っている歌だけがその先例である、というわけではない! 「秋の浦」の語のそのまま入った「秋浦」詠のほうが少ないでしょう。
「秋の浦」という概念の詠まれた歌すべてが先例になるわけです……秋の志賀の浦とか、秋の和歌の浦とか。

そうなると、検索の難易度がうんと上がります。
検索ワード「秋の浦」では、題の本意を理解するために触れる必要のある先例のごくごく一部にしかアクセスできないのです。


これは、しっかり時間を取って向き合わなければ、という気持ちがかえって「忙しいいまはできない。もう少し落ち着いたら……」と先延ばしにつながり、
締め切りの前月など「今年は無理かもしれない」などと洩らしていたのですが。


話は変わりまして、

この令和5年、2023年の夏以降、私は体調を崩しやすくなっていました。


本厄年のプチ事件

愛着を持って続けていたアルバイトのほうでしばらく前に評価されてランクが上がりました。
人情としてうれしくも誇らしくもなり、それ以降私は現場に入る日数を増やしていました。いい加減、生活を安定させたい気持ちもありましたしね。

繁忙期など特に4連勤とか5連勤とか、連勤できるマックス日数まで入り、都心の親友宅に頻繁に泊めてもらい通勤時間を縮めることで睡眠時間を確保、
和歌仕事のクオリティも落とさないため通勤時間で歌稿を直し、本を読み、添削仕事をし……

などという生活をしていたら、2023年7月の5連勤の後半で風邪を引きました。
しかも、5連勤はなんとか終えたのち、中2日休みで回復せず、その後の2連勤もお休みを取ることに。


あとから計算してみると、この年、私本厄だったのです。
『源氏物語』の藤壺が亡くなるのも、紫上が大病に倒れるのも本厄の数え三十七。もちろん個人差はあれど、占いは統計とも言いますし、こういうの、何かしらあるのでしょうね……。

風邪で仕事に穴を空けるなんてまずなかったことで、いっそうショックは大きかったです。
同時に、これを一時的なもの、たまたま、と片づけてはいけない感覚もありました。


どんなに若く見える、きれいだと言ってもらえる外見を整えていても、肉体年齢はきっと相応(よりちょっと健康、ぐらい? 体内年齢は30代前半らしい)である。
体の声を無視して、楽しいからと無理にアルバイトを入れていること、正直うっすら自覚していました。

加えて、「通勤時間と待機時間と休日に和歌仕事はできる」と言いながら創作ペースが落ちていることにも、目を瞑り続けることはできなかった。


いつからかは覚えていませんが……。

この人生は和歌をするためのものなのだな。
あの理不尽もあの不本意も、私が和歌に出会い和歌に取り組むための必然と思えば仕方のないこと、歓迎すべきことだった。
和歌そして和歌史が私を必要としたから私は産まれ、生きているのだ。
そのために、いわゆる一般的な人生は歩めないし、多くの人の思うしあわせは得られないけれど、和歌が私を求めている以上それは仕方ないこと。

フランス革命以降の世界に生きる人間には幸福追求権があるはずだが、和歌の道具である存在が幸福だの何だの言い出すのはちょっと違う、
と日本史、世界史をある程度を学んできた私にはわかります。
個人としての幸福とは別に、世界や人類がその個人に求める役割というものがあり、その犠牲になったと見えるような個人もたくさん、たくさんいるものなのだ、と。

自分がそのような役割を負わされているらしいことを理不尽に感じる気持ちもなくはないけれど、だからといって、代わりにどんな(一般的な)しあわせをぶら下げられたところで、和歌のない人生なんていまさら考えられない。
和歌を捨てて、好きだからといってアルバイトを取るか? 現場仕事でのキャリアアップと人間関係を人生のすべてとする生き方ができるか?
無理無理無理無理無理。

けっきょく、かけがえのない和歌のためにほかのすべてを捨てることが私のしあわせである、という生き方しかできない。
それを選ばされている面もあるけれど、選んでいるという見方だってじゅうぶん成り立つ。

それはきっと、いろいろな不安や経緯があって我が子を持つに至った男女が
「この子のいない人生があったとして、そんなもの考えられない」
「この子に出逢うためのこれまでの人生だったのだ」
と納得するのと同じことなのだろう。日々葛藤しながら、根底には揺るぎないものを持つ、多くの父母と。

――そんな感覚で生きています。


それでも、その時期、私はアルバイトがしたかった。
それは私の天命に反しているとわかっていても、アルバイトがしたかった。

金のため? それもある。それもあるけれど、私が和歌をすれば天がなぜかご縁を動かし生きるのに必要なお金を回してくれるという確信はその時点であったわけで。
和歌という本分を踏み外さないかぎり、アルバイトをしなくても私は生きてゆける。健康に、安全に、しかも豊かに。

それでもアルバイトがしたかったのは、ただただ好きだったからです。
長年地道に続けていた私を評価してくれたボスの期待に応え、はやく成長し、ボスの役に立ちたくもあった。

そうして、和歌に取り組む時間や健康を犠牲にしながらアルバイトを入れてきた。
だから、天が「そっちじゃない」と示してきたんだな。
「お前が週5すべきなのはバイトじゃない。和歌のほうだ」と。


数え三十七歳で藤壺のように死んだり、紫の上のように寝付いてしまったりするわけにはいかない。
この肉体を使ってすべきことが私にはまだ、たくさんある。

アルバイトには、悔しいけれど、代わりがいる。私が出勤日数を減らしたり辞めたりしても、なんだかんだ代わりがいる。会社組織とはそういうものだから。
しかし、和歌が私に求めている、その全貌すら見えないこの世での大仕事については、誰ひとり代わってくれない。仮に誰かに「代わるよ」と言われたとて、代わることができないのだ。

自覚を持て。自覚を、もっと持てよ、梶間和歌。


【好きなこと】でのキャリアを捨てて

夏風邪を完治させた私は「年齢を重ねても長く続けたいので、週2勤務にさせてほしい」と会社に伝えました。


この時ばかりは、和歌という天命を持って生まれ、しかもその時点で無自覚どころかバリバリ自覚的に生きている自分の身を少し呪ったものです。

「私に和歌さえなければ、もっとバイトができたかもしれない。遅くに始め、遅くに評価された私がこの歳からベテランになることはできなくても、もう少しくらい上に行けたかもしれない。和歌さえなければ、ふつうの女性のように、求めたいしあわせが求められたかもしれない」
なんてね。まあ、【ふつうの女性】の求めるしあわせの多くはアルバイトでの実力やキャリア、ポジションじゃないでしょ、ということもわかっていましたけれど。

なにはともあれ、示されていた道が白紙に返ったわけではなく、もとからあった道がより歩きやすく舗装されただけのこと。
【好きなこと】でのキャリアを諦め、【すべきこと】でのキャリアのために時間を使う日々がそこから始まりました。もちろん、和歌は【好きなこと】でもありますけれどね。


そんな決意と生活の変化について旧Twitterにつぶやいたのを見てくれた、三鷹古典サロン裕泉堂の吉田裕子さんが
「アルバイトを減らして時間が出来るなら、うちで歌会をしましょうよ」
と声を掛けてくれたのでした。

この歌会企画が、令和五年隠岐後鳥羽院大賞の結果に大きく関わることになるのですが、この続きはまた次回。


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梶間和歌の出身地島根県とゆかりの深い隠岐後鳥羽院大賞和歌部門への応募経緯や、令和5年分の大会結果、そしてその後……noteのマガジンとして連載して参ります。
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梶間和歌がつつがなく和歌創作、勉強、発信を続けるため、余裕のあります方にお気持ちを分けていただけますと、
私はもちろん喜びますし、それは日本や世界の未来のためにも喜ばしいことであろうと確信しております。

「この無茶苦茶な生き方を見ていると勇気がもらえる」
「こういうまっすぐな人が健康に安全に生きられる未来って希望がある」
なんて思ってくださいます方で、余裕のあります方に、ぜひともご支援をお願いしたく存じます。


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特にこのたび令和5年の隠岐後鳥羽院大賞和歌部門で古事記編纂一三〇〇年記念大賞を受賞し、表彰式を含む大会のツアーに申し込みましたが、こちらのツアー代金(9万円弱)は生活費と別に工面することになります。
お気持ちとお財布事情の許します方に、ぜひともご支援を頂けましたら幸いです。

このツアーの様子はこのマガジンで連載して参ります。どうぞお楽しみに。


今後とも、それぞれの領分において世界を美しくしてゆく営みを、楽しんで参りましょう。


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