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50歳までにこじらせ成分をゼロにする

45歳にもなって自分を「こじらせ」ていると公言してしまうのはかなり恥ずかしいのですが、日常で、何かにイラッとしてしまうとき、愚痴を言いたくなってしまうとき、その原因を考えるに、自分はどこか「こじらせ」ているなと思います。そして、こじらせを自分の内に抱えたまま年はとりたくないのです。

「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」と言ったのは中国の古代中国の思想家にして儒教の始祖である孔子なのですが、これは本当に当たっています。意味は「30歳で独立し、40歳で迷いがなくなり、50歳で自分が生を受けた意味を知る」ということなのですが、さらに続きがありまして、「六十にして耳順う、七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」とあります。「60歳で人の言うことが聞けるようになり、70歳で好きなように行動しても人の道に外れるようなことはしなくなった」という意味なのです。70歳まで生きられる保証などどこにもないけれど、昔の人もこうやって少しずつ成長しながら人生を全うしていたんだなと思うと、自分もまた成長したいという気持ちになります。

その理由は、45歳を超えた今、時たま「こじらせ」を発動してしまうことがあるものの、昔に比べてとても心が落ち着いていると感じるからです。そもそもメタ的に「こじらせ」ていると認識できているだけでもわたしにとっては、成長なのです。

今はもう20代の時のような自己否定感や満たされない気持ちもなければ、30歳の時のような焦燥感もなくなりました。まさに「不惑の年」を迎えたと言えそうです。娘がだいぶ大きくなったというのが多分大きな理由だろうと感じていますが、ただ歳を重ねてきた時間の厚みによるところも大きいです。それにともなって「こじらせ」成分もだいぶ昇華されていきました。ただ、だからこそ、ここから「どんな生き方をする?」と自分につきつけられているように感じています。

ちなみに、この孔子の言葉を知ったのは確か宮本輝の『草原の椅子』という小説だったように思います。21歳くらいの時に読んだので、ストーリーはほとんど覚えていないのですが、記憶を辿ると、50歳前の主人公が今までの旅をし人生をガラリと変えて「天命を知る」物語でした。わたしはその時、20歳前後で50歳までにはあと30年もあり天命を知るのはまだまだ先にように感じていました。でも、時は流れて「天命を知る」まであと5年という地点にまでやってきました。

この25年の間、仕事をし、結婚、出産、子育てを経て人生のステージを変えてきました。それは目まぐるしい日々でした。でも、子育てが一段落つこうとしている今、また、20歳の時の自分に戻るつもりで、じっくりと自分に向き合ってもいい気がしたのです。その時のふと浮かんだ言葉がタイトルの言葉でした。50歳までにこじらせ成分をゼロにする。

なぜこじらせ成分が自分のなかに蓄えられたかといえば、「自分が思うように生きてこなかったから」です。人の目を気にしたり、誰かの言葉に傷ついて自分でストップをかけてしまう。そういうことを続けていれば「わたしなんて」というこじらせ成分が蓄積されてしまう。「わたしなんて」と思っている自分の裏側には「自分はできる」「自分は幸せになれるはずだ」という自信も同時に持っているから葛藤があり苦しんでしまう。

「自分がしたいこと」を自由に自分にさせてあげることで、こじらせ成分は減っていき、しあわせ成分が増えていくはずです。誰かを幸せにすることは自分が我慢することではなくて、自分が先に幸せになることです。

そうしていれば、「となりのトトロ」に出てくるまっくろくろすけが煙突から出ていくみたいにこじらせ成分がなくなっていくはずだとおもいます。目標は天命を知るまでにゼロにしたい。そうしなければ天命などわかるはずもないだろうからです。


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