見出し画像

自分の専門性を守るために

日本語学校で専任の先生がカリキュラム作りに悩んで、非常勤教師に意見を求めるというシーンがあるとおもう。それは教務室なんかでふんわり聞かれることが多い。

実際にわたしも聞かれたことはあるし、逆に聞かれてもいないのにはりきって意見することもあった。虚栄心の強いこと甚だしく今思い出すと恥ずかしい限りだ。だから、最近はそうしたことはあまりしなくなった。今後もしないし、気軽にその問題に答えることはしないほうがいいとおもっている。

理由はいくつかあるけれど、ひとつにはそれは大事な自分の価値だからだ。そういう意見はきまって取り上げてはもらえない。すると自分の自分に対する評価が下がってしまうし、相手に対する恨みも感じてしまう。そういう負の感情を自分の心に溜め込むのは嫌だ。

それと、ちょっと尊大に聞こえるかもしれないけれど、自分のそういう意見にも価値があるとおもっているからだ。価値があるとはお金を払ってもらえるということだ。自分には自分の価値を守る必要がある。だから簡単に人にはあげられない。

そしてその価値は自分が長年苦労して、築き上げてきたものだ。自分の時間とお金を割いてセミナーや学会発表に参加したり、本を買って読んだり、それを十数年コツコツと積み重ねてきたから今の自分がある。自分こそが資本だし、この自分でやってきたことが、積み重ねてきたことが専門性にほかならないのではないかとおもうからだ。

というのも、先日大阪YMCA日本語教育センターの3周年記念ワークショップにオンラインで参加した。NSK研究会のみなさんによるもので、テーマは「日本語教育の専門性三位一体ワークショップー自分の軸を失わないためにー」だったのだけどそのワークショップで「日本語教師の専門性」というものを考え直したのだった。

「日本語教師の専門性」というと「文法説明ができる」とか「やさしい日本語に変換できる」とかそういうことを思い浮かべてしまいがちなのだが、そうではなくて、自分の「理念」と「フィールド」と「方法」(三位一体)の軸こそが日本語教師の専門性だということだった。そのワークショップではその3つについて日頃から感じているもやもやを切り口として、3人のグループメンバーと共に丁寧な対話を重ねることで、自分の専門性なるものを言語化して見出していったのだった。

わたしの理念は「学習者の知的好奇心を刺激する」「新しい扉を開く」「自分の力で学んでいく人と自分も学ぶ」だと思う。フィールドは「日本語学校」「地域日本語教室」「日本語教師養成講座」「プライベートレッスン」で子どもに関わるフィールド以外は全部だ。方法はいろいろあるけれど、文学や評論など日本語教師が文法などを教えるために書いた文ではない文を「読む」ことと「対話」を中心にして、学習者が落ち着いてリラックスして自己表現できるようなクラスをつくりたい。読書会スタイル。そんな教室をデザインしたいとおもっていることにこのワークショップで気づいたのだった。

話が少しそれてしまった。つまり、わたしが日本語教師として生きてきたその全ての経験、学び、気づき、後悔も喜びもその全ての結晶がわたしそのもので、それが専門性なのだ。だから、教務室で簡単に聞かれて、答えたことでカリキュラムを作られてそのエンドクレジットにはわたしの名前がないなんて悲しい。わたしの成分が入っているのに、一円ももらえないなんて虚しい。それはアイデア搾取じゃないかって思う。人はそんな考えをケチだって思うのかな。

もちろん、フリーランスとして受注を目指してサンプルとしてカリキュラムを作ったりすることはあるし、個人レッスンを検討している方に無料レッスンをすることもある。それは喜んでする。立派な営業活動だ。その時に成約しなくても、のちのち必要になった時に思い出してもらえるかもしれない。

講師として教えるときはわたしの全ての専門性をオープンにする。出し惜しみはしないつもりだ。それから、勉強会やコミュニティなどで活動するときもそうだ。

でも職場、特に専任と非常勤がいて、自分が非常勤という立場で働く場所では自分を守る。認めてもらおうと無理をしたり、誰かのためにと自分をすり減らしたりはしたくない。そのために何をしないかということは大事なんだと思う。だから、専任の先生に何か聞かれても、非常勤としての立場で簡単に答えることはしない。




サポートよろしくお願いいたします。 サポートいただけたら、大好きな映画をみて、 感想を書こうと思います。