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サブカテゴリーにいる

人とあうよりもひとりで考え事をするのほうが好きだ。そうやって比較できる環境があったこと、今となっては恵まれていたと思う。私はひとりでいる時間が限られていたからこそ、その時間が好きだったのだ。人と話すことも好きだけど、その時間があるからこそひとりでいるのが好きだったのだ。

夜になると不安になって、人と話したくなる。でも、スマホを開いても気軽に電話したり用もなくメッセージを送れるような友達はいないのだということに気付いて、またスマホを閉じる。大切な友達ほど、気軽にメッセージを送れない。でも、トークルームの一番上にくるようにピンで留めて「用事」ができた日、すぐに送れるように準備してある。それくらいの距離感がちょうどいい。結局、両親に電話をする。電話しすぎないように調整するけれど週に2回くらいはかけている気がする。今はとにかくお母さんが作った料理と、朝・昼・夜が存在した生活が恋しい。

関東の大学に進学して、実家を離れて生活することを選んだのは自分だけど、それはいつでも帰れていつでも遊びに来てくれるということを前提にしていたし、なにより「実家を離れる」ことに対する期待はとてつもなく大きかった。ある程度の孤独は予想していたけれどそれを覆い隠すくらいの期待があって、そこには何一つ欠点なんてないような気がしていた。でも実際には、どこにだっていいところ・悪いところがあるし、どこにいたって幸せも不都合も両手に抱えていることになるのである。それは知っているけれど、あっちこっち行ったり来たりしながら、抱えるもののバランスを取りながら生きることを望んでいた。今は、自分から離れているほうを美化して都合よく理想郷とする側面が大きすぎて、いろんなことのバランスが取れていなくて、必要以上に期待して、必要以上に悲観することしかできない。

コロナというあまりにも大きな物語に世界が飲み込まれていて、私の上京物語も大学生活もサブカテゴリーと化している。現状の「負」の側面に目を向けることが多くなった。自分がいない場所に対してとてつもなく大きな期待をして、現状自分がいる場所に足りないものばかりを見つめている。コロナがなくたって感じていたであろう悲しみも不都合も全てコロナのせいにして、コロナがなかったらできたはずの想像上の自分に期待している。

きっとコロナがはやっていなくたって、課題は多いだろうし友達もたくさんはできなかっただろう。でも、それ以外のことに目を向ける時間も多かっただろう。問題は課題の量とか選択肢の数とかの他にも、それと向き合う時間の割合にもあるだろう。課題を取り組むときに思い出すのは講義内容だけではない。高校生の時は近くの席に座っていた学生のこととか教室に行くまでに通った廊下の雰囲気とか、いちいち言葉にするわけでもない細かな事柄を心の片隅に置いて課題に取り組んでいた。それが今はない。だから、余計に課題に向き合う時間が多いような気がするのだと思う。

栄養を取りたいのならサプリメントでいいじゃないか。そんな考えに学生の声はかき消されそうになっている。大学は遊ぶところではない。わかっている。でも、勉強以外のことも大学生活の一部である。その「雑音」は間違いなく大学生活の一部として期待していたものだ。それがオンライン大学生活には少ない。だから、苦しさを感じてしまう。いいところよりも悪いところを抱えた腕に、重みを感じてしまうのだ。何かをダイレクトに取り込んでまっとうに消化することだけが「正」ではない。

匂いも空間もないこの大学生活にわたしはたまに不安になる。わたしの「今日」はどこにあるのか?繰り返せば繰り返すほどつまらない通学路も、今はもう通らない。だからこそあの通学路は高校時代の一部分であって、都合よく美化できて、そこは思い出の場所になる。春の日、雨上がりの朝、道路に貼りついた桜の花びらを見て、期待と不安でいっぱいにつまったランドセルを背負って向かった小学校を思い出す。今年の入学式は、YouTubeのリンクをクリックして、終わったら赤いばつ印をおす。それで終わった。空間を失った私たちは、いったいどこで何を感じて「今」を懐古することになるのだろうか。不安になる。なつかしさはどこに宿るのだろうか。

(2021/02/08 まとまりのない文章 )

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