見出し画像

【短編小説】和女食堂・鶏チャーシュー

わたしは料理を作れない。正確に言うと、作ったことがない。

それを知られると、「どんだけお嬢様育ちなの?」と必ず聞かれるが、ごく庶民的な一般家庭だ。父は家電メーカーの総務系部署に所属、母は給食センターでパート勤務。

独身時代から母は一貫して調理の仕事をしており、調理師免許も持っている。じゃあ母の料理はものすごく美味しいのかというと、正直言って微妙。70%の確率でまあ普通に美味しくて、30%は美味しくない。

わたしが5歳ぐらいのとき、母がおかずに茄子味噌炒めを出して、それがあまりにも美味しくなくて泣き出してしまったことがある。

今でも茄子と、味噌味の料理は味噌汁以外食べられない。

「お母さんの料理がそんなにいやなら自分で作ってみなさい!」

小学校2年生のとき、母に怒鳴られた。その日のおかずは肉野菜炒めで、野菜から水分が結構出ていて塩分は少なすぎた。

当時のわたしにはそんな詳しいことはわからなかったのだけど、母の料理は念には念を入れて炒めすぎたり、塩分を控えすぎたりする傾向にあった。

泣きながら野菜を冷蔵庫から出し、まな板で切ろうとしたら手を叩かれた。

「反抗するならもうごはんは作ってあげないわよ! 出て行きなさい!」

「まあまあ、子どもは味覚が未発達だから好き嫌いがどうしてもあるものなんだよ。お父さんは美味しいと思う。大きくなったら野菜もいっぱい食べればいいよ。な?」

いつも最後には父が助け舟を出す。

そんなわけで、わたしの好物はレトルトカレーとインスタントラーメンだった。

ただしキッチンの使用は禁止。カップラーメンのお湯さえ母の許可がないと使えない。

大人になって就職して、実家から通勤を始めた。就職難の中なんとか医療機器メーカーに入ることに成功。1〜2年貯金したら一人暮らしをするんだ。

そんな夢を思い描いているさなか、奇跡的に彼氏ができた。同じ部署の三つ先輩。わたしの指導係。どうしてこんなに丁寧で優しいんだろうというぐらい温和な人。

そんな温和な彼に、敬語で告白されたときは涙が出るほど嬉しかった。

由緒正しいご家庭で育ち、大学時代は留学までしていた彼と自分が釣り合うとは思えなかったけれど、どう考えても付き合う前から温かな気持ちが通い合っていた。

お付き合いして一年が経ち、彼はご実家から独立して一人暮らしを始めた。間取りはごく質素なワンルーム。立地は治安のいいエリア。オートロックで新築。シンプルなようでいてお金がかかってるのがわかる。

「今度ごはん作ってあげるよ。食べにおいで」

「作ってくれるの? わたしに?」

「そうだよ。だって料理できないって言ってたよね。僕は簡単なものなら作れるから、横で見てたらいいよ」

「わあ、やったあ楽しみ! ありがとう!」

かなり素直に喜んでしまった。しかし横で見てたらいいよということは、わたしにもいずれ料理を覚えてほしいという意味かしら。

包丁も握ったことのないわたしは、将来結婚したり、いやそれ以前に彼氏の家に遊びに行って料理でもなんてシチュエーションになることを想像しただけで震える。

いつかはやらねばと思うものの、いまだ実家にいる現状、練習さえできない。

「僕もカレーライスとか鍋物とか、失敗のしようがないようなものしか作れないよ。怖くないから見においで」

「あはは、怖い怖い!」

笑ってみせたけど、本気で怖い。わたしなら、カレーライスも絶対失敗する。

【お品書き】 
鶏チャーシュー煮卵入り 800円
精進出汁のしらすネギそうめん 400円
しらすネギのせペペロンチーノ 220円
豚薄切り肉のバター醤油うどん 350円
冷やしうどんツナマヨネーズ梅干し胡瓜ディップ 200円
ミートソース 200円
牛丼 450円
胡麻油炒め蕎麦のサラダ 280円
おにぎり 10円
胡麻塩おにぎり 20円
ネギたまごチャーハン 120円
たまご焼き 50円
たたききゅうり 60円
梅干しと小ネギのお吸い物 80円
味噌汁(玉ねぎ、あおさ)60円
ごはん 10円
麦茶 20円
アイスオレンジティー 40円
福砂屋の五三カステラ 300円
広尾ベルツのバスクチーズケーキ 700円

ここ和女食堂は、母のパート先のおばさん仲間の間で評判のお店。「ちゃんとした手作りで真面目にやってて偉い」と、店主さんのことを評価している。わたしとはかけ離れた存在だな。

キッチンが丸見えで、やってることが全部見えるというので興味があった。何しろわたしはキッチンに出入りすることさえ禁じられている。人が料理をしているところをほとんど見たことがない。

「いらっしゃいませ〜。今日はスゴイの作っちゃった。鶏チャーシュー、美味しいよ」

「そうなんですね。ではそちらをお願いします。あとお茶、アイスオレンジティーと、ごはんと、たたききゅうりを」

「ほいほいー」

今日は昼休みに銀行に行ってしまったから、お昼を食べる時間がなかった。夜ごはん、しっかりしたものを食べたい。

「ほいー。お待たせしました」

あら早い。もう出来ていたのね。胡瓜を包丁の柄でつぶしてまな板の上でゴロゴロしているところしか見れなかった。調理風景の見学失敗だ。

「煮汁にシナモンが入ってんのよ。だからいい匂いすんの。それがねー、ごはんにすごく合うから。召し上がってみて。ごはんおかわりあるわよ」

異常にカジュアルだけど、誰かと間違えているんだろうか? それともいつも、こんな感じの人?

鶏チャーシューって初めて食べる。あら、美味しい。なんだろうこれ、シナモンが入ってるって言ってたなあ。シナモンとお醤油の味ってこんなに合うのね。ほかに何が入ってるんだろう? ひとつも思いつかない。

「これね、醤油とシナモンと砂糖、塩、お酒、味醂、ニンニク、生姜、お水とネギの青いところで煮てるの。書いてある分量通りに入れて煮るだけなんだけど、煮る前に鶏肉に塩をして水分を抜いたりするのが少し手間かかるね」

もう何を言ってるのかわからない。

「あの、実はわたし、今まで一度もお料理したことないんです。母が変わった人で。いつかやってみたいんですけどね」

「あ、そうだったんだ! 料理って筋トレみたいな感じで、鍛えてないと鈍るからね。習慣化するとなんてことないよ。もし本当に初心者なら、同じものを何回も作るといいよ。肉じゃがを三日連続で作ってみるとか。めんつゆを使ってもいいしね。どれくらいの火加減で、どれくらい水分がなくなるのか、最初はそれを観察するぐらいで十分よ」

そうかー。とはいえまだ実家では作れないから、どっちにしろ一人暮らししてからだなあ。

「最初の1回目はね、必ずレシピ本通りに作るの。自分の好みだと醤油多めにしたいとか、調味料が一種類足りないけどまあいいやとか、弱火で10分て書いてあるけど強火で3分とかにしないで。まずは書いてある通り1ミリも違わず通りきっちり作るの。で、食べながらどこをどう変えたいかスマホにメモしといて。翌日、少しだけ変更してまた同じ料理を作るの。少しだけだよ。少しにしないと、変えたことの効果が把握しにくくなるから」

少しってどのくらいなんだろう。まあいいか、当分は作れないからね。

「最初はネットに出てるレシピより、一人の料理家さんのレシピ本で集中的に作った方がいいよ。写真を見て、美味しそうだな、今日これを自分のおかずにしたいなと思う写真がいっぱい出てる本にしてね。オシャレで味が想像つかないのとかは、もう少し上級者になってからね。最初は食べたことあるものにしてね」

へえ。実はレシピ本も一冊も持ってないし、料理家さんの名前も知らない。

「これ実はわたしが実践した方法なの。わたしの家は大学生まで料理禁止だったから、何も作れなかったのよ。母は料理嫌いだし、何も教わったことないの」

え、大学生まで料理禁止? それで今は食堂を経営してるの? 

「小林カツ代先生も結婚するまでお料理したことなかったのよ。その小林カツ代先生の料理ビギナー本が、わたしの最初の先生。本の中で気に入った料理を5種類ぐらい、何回も作ったの。そしたら他の本を見ても色々作れるようになったのよ」

えー、そうなんだ。そんなうまくいくもんかねえ。

「今も家族には料理下手だねって言われるの。でもさー、自分で食べて美味しかったらいいよね。目玉焼きでも、インスタントラーメンでも、自分の好みなら美味しいじゃない? 家族が作ったのって、なんか違うよね。まずくはないけど」

確かに、わたしもカップラーメンのお湯の量にはこだわりがある。フチのギリギリまでたっぷりお湯を入れたい。

「なんかしゃべりすぎちゃった。ごめんなさい。ごゆるりと」

そう言って彼女は別室に消えていった。

その3日後、わたしは彼の部屋に初めておじゃました。

真新しい小さなテーブルに、カレーライスと缶詰のスープと瓶詰めのピクルスとお水のコップが並べられた。

「いただきます! すごいね、これ全部作ったの?」

「作ったと言っても、野菜を切って炒めて煮ただけだよ。見られると緊張するから、来る前に作っちゃった」

「あはは、美味しい! 本当に美味しいよ。幸せ。ありがとう!」

「美味しそうな顔で食べてくれてありがとう。あのさ、結婚したら、僕の料理を毎日食べてくれる? もちろんキミが作りたい日があれば作ってほしいけど。僕は自分の作ったものを笑顔で食べてくれるキミが見たいんだ」

「あのそれ、プロポーズなの?」

「あっ、そうか。今度ちゃんとプロポーズするね」

えっ? 今わたし、プロポーズされたのかな。しかもごはんを毎日作ってくれる前提で? こんな都合のいい話ってあるんだろうか。

そういえば、彼のお父さんも料理が得意だと言っていた。世の中にはごはんを作ってあげる喜びというものが本当に存在するのだろうか。わたしの知らない世界。

いつの日かわたしも、その世界を知ることができるのかな。とりあえず本屋さんで、初心者用の料理本をチラッと見てみる気にはなった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?